「オオマツヨイグサ(大待宵草)」が、さんざめくように揺れています。晴れの日が少なく、曇りがちの日が続いたからでしょうか。そう言えば、「ユウガオ(夕顔)」も、まるで「ヒルガオ(昼顔)」のような顔をして蔓を這わせていましたっけ。どこかおかしげな季節の有様です。ついこの間、「セミ(蝉)」の声が夏を告げたと思ったばかりでしたのに、今朝はもう秋の虫の声に耳を傾けるようになりました。そしてはたと気づくのです。確か、これは、お盆を過ぎた頃からではなかったかと。
今朝は、少し肌寒いくらいの風が吹いています。もう一枚羽織った方がいいかなと思われるくらいの涼しさです。本来なら、朝でも、ムワッとした風が吹き、暑さを予感させるはずですのに。この涼しさを、喜んでいいのか、それとも、恐るべきなのか、虫歯が奥でジリジリと鈍く痛んでいるような、そんな不安を感じてしまいます。
福島、新潟を、台風が襲いました。西日本をよく襲う、梅雨末期の集中豪雨のような降りでした。町や村が、あっという間に泥流に呑まれ、水が引いた後は、田畑も家の床も、一面、ねっとりとした泥に覆われ、何もかもが泥いろです。それなのに、なぜか人々の声は静かです。「どうしていいかわからない…困ったものだ」。「片付けるのにも、一年くらいかかるかもしれない…」。
他国でよく目にする「泣き叫ぶ」人の姿はありません。黙々と片付ける人の姿ばかりです。自分のできる範囲のことを少しでもやっていくしかないと諦めているようにも見えるのですが…。「よく助かった…」「皆が助けてくれたから。私は足が悪くて、歩けなかったから…」
こういう言葉は…、聞くと、却って辛くなります。偽善になれた国の人は、それを「二重人格」とか、「嘘つきだ」とか言うのでしょうけれども。
日本人なら、こういう時の、人の言葉をそのまま信じます。そして涙します。おそらくこういう不幸に見舞われたら、私もそう言うでしょうし、私一人ではなく、日本人なら誰もが、同じように、そう言うでしょう。
また、こういう言葉以外に出てこないのです。神を恨み、仏を罵っても、それで何が生まれるというのでしょう。この地に生まれてきたから、そしてこの地に生きているからと、様々な不幸に出遭っても、その理由はそれしかないのです。
だれもがこの島の中で、より少なく自然の猛威を受けなくてすむような場所を探し、あるいは木々でその場を囲み、その場に土塁を築いたりして生きてきたのです、昔から。
ただ、近代になって、その調和は崩れてきましたが、それでも、なにかあると、すぐにそうしていた昔を思い出します。
こういう自然災害(天災)は、いくら近代になってからの温暖化に拠るものにせよ、まだ古代の人々と同じような気持ちで、見つめることができます。「原発」の事故とは違うのです。
日本でさえ、「安全神話」によって人々の目が曇らされていたり、専門家の間でも「もし事故が起きたら」と、不安を口に出せないような状況が続きました。それが、もっと怖い国であったらと思うと、堪らない気持ちになってきます。事故が起こっても、口をぬぐって、「それはなかったのだ」と、一言で「なかったこと」にされてしまうかもしれません。世界中が見つめていても、それでも、そうするでしょう。
そういう国では、「明日は我が身」とは考えられず、あれは「あいつの運が悪かったのだ」と、他人事扱いしてしまうかもしれません。想像力が足りないからそうするのではなく、もうそれが習いとなっているのでしょう。そういう国で生きている人は、「運がよかったから、自分は安全だったのだ」と思うしかないのです。
「運」だけに頼る人生というのは、辛いものがあります。人は場所を選んだり、親を撰んだりして、生まれてくることはできませんから。どんなに頑張ってもどうにもならない、生きようともがいても、どうにもならない人生というのもあるのです。もし日本がそうなったらと思うと、ぞっとしてしまいます。少なくとも、今はまだ大丈夫のようですけれども…。
そういう国では、だれもが潜在的な不安を抱いて暮らしているのでしょう。もしかしたら、その不安を感じると言うことすら、特権なのかもしれません。普通の人たちは生きていくことに必死で、そんなことを感じる余裕さえないかもしれません。
ただ、それが、日常的になってしまっていたら、それが本当は「異常である」とは思えなくなるでしょう。そういう状態はやはり怖い。そういう国から一歩も出たことがない人たちは、その「異常」が、「異常」に見えないに違いありません。
けれども、日本人だとて、日本が、異常になったら、本当にその「異常」に気づくでしょうか。だれか「カナリア」の役をしてくれる人がいて、「これはおかしいよ」と言ってくれないかぎり、少しずつおかしくなっていく「異常性」に気づかないに違いありません。
これは景気が悪くなるとか、政治家が悪いことをしたとかいうことではないのです。目には見えず、データにも表れません。それでいて、ジワジワと息苦しくなるような、そんなものなのです。それだけ不気味で、言い表しようのないものなのです。
とはいえ、いつの世にも、「カナリア」はいます。過たぬバランス感覚に長けた、きちんとした常識という「尺度」を持った人たちが。私たちはそういう人たちの鳴らす警鐘を、正しく聞き取り、感じ取り、そして判断し、自分たちの進んでいく道を決めていかなければならないのでしょう。
そして、このような作業は、「集団」でというよりも、まずは「個人」でやっていかなければならないものなのかもしれません。こういうことは、優れて「個人的なこと」のはずですから。
日々是好日
今朝は、少し肌寒いくらいの風が吹いています。もう一枚羽織った方がいいかなと思われるくらいの涼しさです。本来なら、朝でも、ムワッとした風が吹き、暑さを予感させるはずですのに。この涼しさを、喜んでいいのか、それとも、恐るべきなのか、虫歯が奥でジリジリと鈍く痛んでいるような、そんな不安を感じてしまいます。
福島、新潟を、台風が襲いました。西日本をよく襲う、梅雨末期の集中豪雨のような降りでした。町や村が、あっという間に泥流に呑まれ、水が引いた後は、田畑も家の床も、一面、ねっとりとした泥に覆われ、何もかもが泥いろです。それなのに、なぜか人々の声は静かです。「どうしていいかわからない…困ったものだ」。「片付けるのにも、一年くらいかかるかもしれない…」。
他国でよく目にする「泣き叫ぶ」人の姿はありません。黙々と片付ける人の姿ばかりです。自分のできる範囲のことを少しでもやっていくしかないと諦めているようにも見えるのですが…。「よく助かった…」「皆が助けてくれたから。私は足が悪くて、歩けなかったから…」
こういう言葉は…、聞くと、却って辛くなります。偽善になれた国の人は、それを「二重人格」とか、「嘘つきだ」とか言うのでしょうけれども。
日本人なら、こういう時の、人の言葉をそのまま信じます。そして涙します。おそらくこういう不幸に見舞われたら、私もそう言うでしょうし、私一人ではなく、日本人なら誰もが、同じように、そう言うでしょう。
また、こういう言葉以外に出てこないのです。神を恨み、仏を罵っても、それで何が生まれるというのでしょう。この地に生まれてきたから、そしてこの地に生きているからと、様々な不幸に出遭っても、その理由はそれしかないのです。
だれもがこの島の中で、より少なく自然の猛威を受けなくてすむような場所を探し、あるいは木々でその場を囲み、その場に土塁を築いたりして生きてきたのです、昔から。
ただ、近代になって、その調和は崩れてきましたが、それでも、なにかあると、すぐにそうしていた昔を思い出します。
こういう自然災害(天災)は、いくら近代になってからの温暖化に拠るものにせよ、まだ古代の人々と同じような気持ちで、見つめることができます。「原発」の事故とは違うのです。
日本でさえ、「安全神話」によって人々の目が曇らされていたり、専門家の間でも「もし事故が起きたら」と、不安を口に出せないような状況が続きました。それが、もっと怖い国であったらと思うと、堪らない気持ちになってきます。事故が起こっても、口をぬぐって、「それはなかったのだ」と、一言で「なかったこと」にされてしまうかもしれません。世界中が見つめていても、それでも、そうするでしょう。
そういう国では、「明日は我が身」とは考えられず、あれは「あいつの運が悪かったのだ」と、他人事扱いしてしまうかもしれません。想像力が足りないからそうするのではなく、もうそれが習いとなっているのでしょう。そういう国で生きている人は、「運がよかったから、自分は安全だったのだ」と思うしかないのです。
「運」だけに頼る人生というのは、辛いものがあります。人は場所を選んだり、親を撰んだりして、生まれてくることはできませんから。どんなに頑張ってもどうにもならない、生きようともがいても、どうにもならない人生というのもあるのです。もし日本がそうなったらと思うと、ぞっとしてしまいます。少なくとも、今はまだ大丈夫のようですけれども…。
そういう国では、だれもが潜在的な不安を抱いて暮らしているのでしょう。もしかしたら、その不安を感じると言うことすら、特権なのかもしれません。普通の人たちは生きていくことに必死で、そんなことを感じる余裕さえないかもしれません。
ただ、それが、日常的になってしまっていたら、それが本当は「異常である」とは思えなくなるでしょう。そういう状態はやはり怖い。そういう国から一歩も出たことがない人たちは、その「異常」が、「異常」に見えないに違いありません。
けれども、日本人だとて、日本が、異常になったら、本当にその「異常」に気づくでしょうか。だれか「カナリア」の役をしてくれる人がいて、「これはおかしいよ」と言ってくれないかぎり、少しずつおかしくなっていく「異常性」に気づかないに違いありません。
これは景気が悪くなるとか、政治家が悪いことをしたとかいうことではないのです。目には見えず、データにも表れません。それでいて、ジワジワと息苦しくなるような、そんなものなのです。それだけ不気味で、言い表しようのないものなのです。
とはいえ、いつの世にも、「カナリア」はいます。過たぬバランス感覚に長けた、きちんとした常識という「尺度」を持った人たちが。私たちはそういう人たちの鳴らす警鐘を、正しく聞き取り、感じ取り、そして判断し、自分たちの進んでいく道を決めていかなければならないのでしょう。
そして、このような作業は、「集団」でというよりも、まずは「個人」でやっていかなければならないものなのかもしれません。こういうことは、優れて「個人的なこと」のはずですから。
日々是好日