日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「五月晴れ」。「『青』と『緑』、自然の色」。「『樹の一生』、『人の一生』」。

2010-05-13 08:22:39 | 日本語の授業
 今朝は「五月晴れ」、肌寒いと感じられるくらいの風が吹いています。朝はこのように、穏やかな風なのですが、もしかしたら、陽が高くなると共に、強くなるかもしれません。昨日は、昼頃から、「春の嵐」が吹き荒れましたし。

 樹々もすっかり落ち着きました。それを、「あるべき姿に戻った」と言った方がいいのでしょうか。華やかな花々に覆われていた樹々もです。「各々緑」に染まっています。それが、今朝の青空によく映えて美しく見えます。

 「『青』と『緑』は互いに闘う」と言ったのは、フランスの貴婦人でしたが、自然界に存在する「緑」は、どの色とも争いません。空の「青」もそうです。本当に自然界の「色」は(どの「色」も)、誰とも争わないのです。争い、互いの良さを抹殺するどころか、どの「色」とも調和し、際だたせ、より鮮やかにしてくれます。

 すでに、深い緑に覆われている、これらの樹々も、ほんの一ヶ月前の姿を知っているからこそ、名を告げることができるのです。そうでなければ、何が何の樹やら、さっぱりわかりません。花をつける頃と、緑に覆われた頃と、緑をすっかり脱ぎ捨て、裸で突っ立っている頃と、そしてその狭間と、樹には、生涯に幾種類もの変化を繰り返します。

 そして、その時々の表情の、何と豊かで異なって感じられることでしょう。

 古来から人々は樹々の実りにも頼って生きてきました。樹々から、生活の糧を得ようとするのですから、その頼りである樹々の「人生」に沿う生き方をせずにはいられません。木々と同じように人も循環して生きているのです。

 「旬」という期間は、人にもあり、いつがその人にとって「旬」なのかは、もしかしたら棺に覆われるまで、わからないことなのかもしれません。「樹」にとっても、「花」が咲く頃が「旬」なのか、「実」がなる頃が「旬」なのか。或いは、その狭間の「雌伏」の時期をこそ、「旬」と言うべきなのか、思いの異なる人には決めることなぞできはしません。

 「植物」の心が「発見」されて久しく、最近では、「細菌の学習能力」までも、実験で確かめられるようになっています。「樹々の視線」を、人が気にせねばならぬ時代は、もうすぐなのかもしれません。

 人にも、「植物」系の人と「動物」系の人とがおり、見る人が、自然界の生き物とその人との共通点を見つけ出し、そう名づけています。とはいえ、一括りにすれば「生き物」であるでしかないのです。地球上に存在を許された、「生き物」です。

 人も、樹々が「季節の移ろい」と共に、姿を変えるように、姿を変えていきます。整形などせずとも、心持ちが変われば、顔つきも変わります。顔つきが変われば、人に与える印象も全く違ったものになります。鬱屈していた人が、時を得れば、その表情が一変し、別人のようになるというのも本当でしょうし、その逆もまた事実でしょう。


 環境が激変すれば、土臭い少年が、垢抜けた都会ッ子になることもありますし、ダンディだった男性が、急にみすぼらしく老け込むということもあるでしょう。

 しかしながら、大半の人は、そのようなこと(激変)を経験せぬまま、年をとり、大地に帰っていきます。針葉樹のような人生を過ごすか、或いは落葉樹となるか、また花を持つ樹になるか、甘い実をつける樹になるのか、或いは何も持たぬままの一生になるか。植物ならぬ、石とも見間違うような人生になるのか。荒れ地に生きる人生か、温暖な地で豊作を絶え間なく繰り返す、穏やかな人生になるか。こればかりは、予測のつかぬ事です。

 そうは言いながらも、人という者は、人生を選び取ること術を授かっていないのかもしれません。そういう「定め」なのかもしれません。「いや、違う。私は闘って勝ち取った」と若い頃は言っていても、いざ、死を前にすると、ほとんどが「自分の闘いは何だったのだろう。始めから決められていた人生ではなかったのか」という疑いを抱くようです。

 とはいえ(そういう言葉を呟くことになるにせよ、そういう生き方を選んだのは、なにがしかの「運命」とか「宿命」と呼ばれるものであったにせよ)、確かにその人生を選択したのは人なのです。選ばないという選択をした人をも含めて。

 選択したにせよ、しなかったにせよ、足掻いたにせよ、浮かんだままであったにせよ、
「生」は、やはり「終わり」まで続いていきます。生まれた地は選ぶことができなかったにせよ、平和であれば、最期の地だけは自分で選ぶことができるでしょう。いえ、(本来)できるはずです。人間が人間として、死を迎えることができるのであれば。

 結局は、なるようにしかならないのが人生です。
この学校にも、様々な国から、いくつもの希望を抱いてやってきた学生たちがいます。中には、怖ろしく自分勝手な、およそ日本では通用しないような希望をもっている学生もいます。

 とはいえ、「運」と「相性」という味方が、世の中にはあるのです。「相性」のいい相手を引き寄せることができるのも「運」といえば「運」です。ある時期までに「日本語の能力が一定のレベルに達している」というのも、ある意味では「運がいい」ということなのかもしれません。

 いくら能力があると本人が自負していても、日本では、日本語ができないかぎり、その「能力を発揮できる」場にも限りがあるのです。

 「変えられないこと」と、「変えられるかもしれないこと」の「見分け」が、そして、もしかしたら、その「選択」が、人にとって一番難しいことなのかもしれません。

 日々是好日
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