日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「鳴尾に立てる一つ松」。「自分の(日本語の)レベルを知るということ」。

2009-09-14 08:42:06 | 日本語の授業
 今朝は、「青」が、空の大部分を占めています。そうなりますと、不思議なことに、木々の緑に、真夏の頃の「輝き」が戻ってくるようなのです。それも、お日様の光が当たっているからなのでしょうか。同じ緑ながら、他と違う、「自分だけの色」を主張し始めているようなのです。ただ、日陰に入りますと、途端に、色もくすみ、「その他、諸々の緑」も、ただの「緑」と称されるだけで終わってしまいそうなのですが。

「わが身こそ 鳴尾に立てる一つ松 よくもあしくも また類なし」(慈円)

 木々に限らず、草であろうと、犬猫であろうと、そして、人であろうと、こう思って生きていくべきなのでしょう。せっかく、授かった「生」なのですから。

 「(太陽の)光」を思う時、自然に「ほのぼの」とする人もいれば、「灼熱地獄」を思い浮かべる人も、これありで、結局、これもそれも、彼の「光」には、「私心」がないことからくるのでしょう。誰にも、同じように与えられる光、そこには「私心」も「邪さ」も見あたりません。それに比べ、「運命(の神)の目」には、「贔屓」と言う言葉が隠されているような気がするのですが、そう思うのは、私一人でしょうか。

 ある者は、生まれながらにして、「神に愛されし者」となり、ある者は、一生を「苦しみの中にのたうつ」という定めを授かる。これはなぜなのでしょう。

 そう言いますと、そう思うこと自体、間違っているという言葉が聞こえてきそうです。だれにでも、たとえ、一瞬であろうと、まるで「地球上のすべての光を浴びているかのように思える」時があると言うのです。そうかもしれません。そうでなければ、人というものは弱いもの。残りの人生をそのまま生き続けていくことは不可能でしょう。

 さて、学校です。「Aクラス」では、どこの大学を受験するか、だいたい三つほどは選べているようです。それに引き比べ、「Bクラス」の学生達は、一年も経たぬうちに、志望校を決めねばならないのですから大変です。チュンチュン雀ばりに、アタフタと騒いでいます。けれども、何と言いましても、一番大変なのは、今年の1月に来た「Cクラス」の学生達。

 彼らは簡単に、一年いれば一年分だけ上手になり、二年いれば二年分上手になれると思っています。しかしながら、厄介なことに、そうは、うまく、問屋が卸さないのです。こちらからは、学校に残っていても、まだまだずっと伸びるであろうと思える人と、わずか半年であろうと、言語を学ぶ上で、「限界」が来ている人とが見えるのです。

 もし、前者であれば、学ぶこと自体におもしろさを感じている真っ最中ですから、日本語学校で学ぶことは、その人にとってマイナスにはならないでしょうが、後者であれば、「日本語だけを日本語学校で学ぶ」よりも、専門学校へ行って、何かの専門を学びながら、「ついでの日本語」を学んだ方がいいと思われるのです。

 特に、「漢字圏」出身でない学生は、まだその人のレベルが「三級」程度になったばかりですと、「二級」問題と「三級」問題の違いが判りません。大した違いがないように思えるらしいのです。ですから、簡単に、「『三級』に合格したから、次は『二級』だ」と、これまた、半年ほどで、(ちょっと努力すれば)合格できるように思い、それを口にも出してしまいます。

 以前、こういうことがありました。あるインド人の学生が、私のところへ来て、先生のクラス(「Aクラス」)へ行きたいと言うのです。彼のクラスの中国人学生は、大卒者が多く、しかも、まじめなので、(しゃべることだけが好きで、授業中も話をわき道へそらしたがる)彼とは、あまり馬が合いません。それで、疎外感を味わっていたようなのです。課外活動の時に一緒になる、(当然、外に出たわけですから、教室の中とは違います)キャピキャピしているかに思えた「Aクラス」の学生とならうまくいくと思ったのでしょう。なんとなれば、「Aクラス」の中国人たちは、高校を卒業したばかりの子たちが主でしたし、おしゃべりな彼を、却って、おもしろがっていましたから。ただし、課外活動の時だけです。授業の時には、全くそういうではありません。けれど、彼が知っていたのは、課外活動の時だけですから、あのクラスなら楽しく勉強できると、彼なりに踏んだのでしょう。

 「甘い、甘い」と、直ぐに言いそうになったのですが、まあそこは堪えて、「Aクラス」の学生達が勉強していた「(上級の)教科書」を見せてやりました。彼のレベルは、「三級」に毛の生えた程度でしたし、その上、漢字は「三級」のものさえ、うろ覚えでしたから、一目見れば驚いて取り下げると思ったのです(「聞く」「話す」だけは大したものでしたが、あまり文法に則ったものではありませんでしたから、試験になると、かなり不利ですね)。ところが、豈図らんや、「大丈夫。頑張れば追いつける」と来たのです。

 その時は、そうか、「(『二級』と『三級』の)差」が判るにも、それなりのレベルが必要なのかと驚いたものでしたが、この程度(三級)の時には、何を話してやっても、どこがどうだと説明してやっても、通じるはずがないのです。日本語のレベルの他に、日本語のイメージがないのです。全く彼らの想像力の外で、(先生が)ワアワア言っているくらいにしか聞いていなかったのでしょう。

 その彼も、結局「中級」をもう一度やり直すことになって、今は午後のクラスに通っています。おしゃべりはおしゃべりなのですが、自分の日本語のレベルどれほどなのか、多少は判ったようです。

日々是好日
コメント
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