昨夜か早朝、雨が降ったのでしょう、地面は微かに濡れています。湿度も、まだかなり高いとのことでしたが、フフホト帰りの私からすれば、日本では、雨が降ろうが降るまいが、湿度は高いのです。
「乗り物嫌い、旅行下手」の私が、二泊三日の中国の旅から、無事に戻ってきたのは、六日の夜のことでした。四日の金曜日、成田発北京経由で、夜フフホトに着き、翌日、五日の夕方にフフホトから北京へ飛び、六日に、また成田へ戻るという、かなりの強行軍でした。さすがに昨日の朝は、授業準備に追われ、ブログを書く余裕はありませんでした。
しかしながら、この「短期間の旅」だったからでしょう、「内モンゴル」という地が、いかに人間にとって過酷な場所であるかを、如実に感じさせられました。
北京と日本を行き来していた留学時代、「北京の乾燥」というのは、謂わば、呪われた存在で、仲間とは、北京の空気は「バリバリ」しているなどと言っていたものでした。が、今回、一日で、フフホトから北京に来てみると、北京の空気に、優しさすら感じてしまったのです。「ああ、水気」という風に。もっとも、北京から成田に戻ってきてしまうと、日本の大気は、「水浸し」のように思えてしまいましたが。
生き物には、水が必要です。海から陸に上がったわけですから。四六時中、水の中にいるようにベトッとした湿度に包まれていたいとまでは言いませんが、大気に水分を感じていたいのは、おそらく、人皆、そうでしょう。それを、彼の地では味わえないのですから。雨が降っていても、水と人間との間に、厚い膜があり、水分の存在を感じさせてくれないのです。こういう土地で暮らすのは、辛いですね。今回は一日ずつという行程でしたから、その厳しさの一端を窺ったような気がします。
さて、フフホトです。
M先生の学校では、いい学生達に会えました。一人は、勉強する習慣も根性もありそうに見えませんでしたので、日本語試験に合格してから話しましょうと言うことにしましたが、その他の学生達は、もし彼らが、この学校に来たいというならば、喜んで引き受けようという気になるような若者たちでした。
彼らは、「面接」とか、「合格した」とか、言っているようでしたが、これは「面接」というほどのものでもないし、「合格した」とか言うようなものでもないのです。
私たちは、お互いの「相性」を見ているのです。多くの学生は、その「相性」を探れないまま、日本へ来てしまいます。来てから、ホッと胸をなで下ろす学生もいますし、困ったと戸惑う学生も出てしまいます。それが、あらかじめ、来日の前に、こういう場を提供していただけると、「相性」を見合うことができますから、お互いのためになるのです。その上、彼らが、日本へ来たら、私が教えることになるのですから。
彼らを自分との「相性」を考えます。来日後、彼らを背負うことが出来るかどうかを考えるのです。私たち二人は、私たちが中国へ来ている間、学校を守ってくれている若い先生たちの代わりに来ているわけですから、いい加減に見ることはできません。何かあった時、若い人たちの代わりにこちらが出張っていかねばならないのですから、なおさらです。若い先生が、一生懸命に教えてくれる、その意に背くような学生も困るのです。
来日後の、彼らの厳しい生活は考慮しながらも、それに同情して、勉強しなくてもいいよなどとは言いません。彼らが頑張れば、私も多くの事を教えることができますし、彼らも多くの事を学ぶことができます。勉強する気がなければ、例え、私が「100」の知識を持っていたとしても、一つくらいしか教えることができなくなるのです。
だって、そうでしょう。「0.01」くらいの知識で、「アップアップ」と溺れかけている人に、「1」であろうが、「10」であろうが、詰め込めるわけはありません。無用な苦しみを与えるだけです。その人たちには、それなりに、楽に、望み通りの外国生活を過ごせる日本語学校へ行った方がいいのです。
その反対に、「100」入れても、まだまだ余裕のある人には、こちらも、更なる努力をしなければなりません。その分野における、さらに深く広い知識を獲得したり、或いは新たなる教材を開発したりしなければならないのです。この土俵の上では、私たちは、常に学生達よりも高く、また深く、幅広いところにいなければならないのです。そうでなければ、立場が逆になってしまいます。「学びたい」と学費を払って来ているのは、彼らの方なのですから。
実を言うと、忙しくて大変になるのは、この頑張り屋さんの学生相手の方なのです。が、教員から見れば、こちらの方が「やりがい」があり、「面白い」のです。
もっとも経営者の立場から見れば、そうではないでしょうけれど。教員の立場からでなく、経営者の立場(「経営者」という言い方がいいのか悪いのか判りません。が、「会社を持っていると思っている人の立場」から見たら、くらいの意味で、この言葉を使っています。つまり、ここで言うところの経営者は、「教育界」の人間ではありません)からは、必要な費用を出せる人なら、そして、大人しくて学校側に迷惑をかけなければ、誰でもいいのです。それどころか、二年で「初級」をウロウロしてくれる方がいいでしょう。経費も安くて済みますし。何となれば、レベルの高い教員を雇わずに済みますから、人件費も安くあがるのです。
「『上級』後」が、長ければ長いほど、こちらの準備も大変になりますし、お金もかかります。ここで言う「上級」は、「一級」レベルを指します。勿論、中国人の中には、「一級」に合格してしまえば、それで終わりと思っている人も少なくありません。出来れば、そういう人も振り落としたいのです。勉強する気がなければ、「私たちの」学生ではありません。日本へ行くだけだったら、既に「一級」に合格しているのですから、どこの日本語学校だっていいでしょう。
こういう人には解らないでしょうが、実は、日本語の勉強は、「一級後」が長いのです。「大学で」ではなく、「日本語学校においても」、そうなのです。「一級」に合格していたとて、「大学の授業」には、ついていけませんし、「会社の会議」に参加しても、多分、チンプンカンプンでしょう。
「一級後の勉強」は、日本語を勉強するのではなく、「既に獲得している低レベルの日本語」で、更に上級レベルの文章を読み書きし、また、聞いたり、話したりしながら、知識を増やしていくことなのです。「日本語『を』学ぶ」から、「日本語『で』学ぶ」に変わるのです。
これが判っていないければ、「私はすでに一級に合格しているから」と、思い上がり、せっかく日本語学校に籍を置いているのに、勉強をせず、大学や大学院に入れても、先生の言うことが判らずに落ちこぼれていくということにもなりかねません。
勿論、「感性」を必要とする類は、なかなか「学ぶ」事はできませんが、大方の知識は、「学ぶ」ことができます。「感性」の不足は、それで補えることもできるでしょう、ある程度は。
この学校は小さな学校で、学生が、一日でも休めば、その情報はその日のうちに、すべての教員に知れ渡ってしまいます。これは、まじめな学生が多ければ、教師にとっても学生にとっても、「プラス」に働くのですが、もし、学生の方が「出稼ぎ」感覚で来日しているようだったら、教師にとっては地獄となります。皆見えてしまいますから。どんなに自分が頑張っても、どうにもならない価値観を持ち、どうにも動かせない人たちが、学校にワンヤワンヤと存在しているということになり、まじめな仕事人肌の教師にとっては、阿鼻叫喚地獄であえぐという結果にもなってしまうのです。
今、在籍している学生の大半は、まじめです。つまり、教師にとっては、「生活面」で手がかかるのではなく、「教育面」で手をかけさせてくれるので、ありがたい限りの学生達なのです。学生達のレベルが高いとか低いとかは二の次です。勿論、教えたら直ぐに理解し覚えてくれた方がいいに決まっています。けれども、そうでなくともいいのです。いわれた通りに宿題もし、忙しい時間を調節し、「やれ」と言われれば予習・復習までやってくる。そういう気持ちが大切なのです。そういう学生を教師は見捨てることができません。頭のいい学生も大切、日本語の学習にそれほど適さない学生も大切。これは持って生まれたもので、親を恨んでも仕方がないのと同じです。
来日目的が、「日本語の学習」ではない学生であろうと、自分の「在日資格」が「日本語を学びたい」ということで、得られているということを、自覚してさえいれば、そこには自ずから行動に制限がつきます。毎日学校に来るということです。それが実行できていれば、自然と日本語も上達しますし、そうなれば、また別な欲、つまり、進学したいという気持ちも芽生えてくるでしょう。そうして、勉強にも励んでくれるようになれば、いい結果に繋がっていくでしょう。
私たちは、「人情的」になることを畏れます。それよりも、「人間的」でありたいと思っています。こういう仕事をしていますと、「かわいそう」と思うことが多々あるのですが、情に負けて何かを彼らのためにしてやっても、それが彼らのためにもならず、そして、他の人たちのためにもならず、却って、罪作りをしてしまったと言うこともあるのです。
「人情的」であることは、簡単ですが、「人間的」であろうとするのは、難しいことです。それは、あるときは「情なし」にも見え、人の非難を呼ぶこともありますから。けれど、「教育」に携わる以上、結果の見えない大海に浮かんでいるようなものですから、そこには自分自身に対する、一分の理屈が必要になります。それが『人間的』であろうとする」ということなのでしょう。
日々是好日
「乗り物嫌い、旅行下手」の私が、二泊三日の中国の旅から、無事に戻ってきたのは、六日の夜のことでした。四日の金曜日、成田発北京経由で、夜フフホトに着き、翌日、五日の夕方にフフホトから北京へ飛び、六日に、また成田へ戻るという、かなりの強行軍でした。さすがに昨日の朝は、授業準備に追われ、ブログを書く余裕はありませんでした。
しかしながら、この「短期間の旅」だったからでしょう、「内モンゴル」という地が、いかに人間にとって過酷な場所であるかを、如実に感じさせられました。
北京と日本を行き来していた留学時代、「北京の乾燥」というのは、謂わば、呪われた存在で、仲間とは、北京の空気は「バリバリ」しているなどと言っていたものでした。が、今回、一日で、フフホトから北京に来てみると、北京の空気に、優しさすら感じてしまったのです。「ああ、水気」という風に。もっとも、北京から成田に戻ってきてしまうと、日本の大気は、「水浸し」のように思えてしまいましたが。
生き物には、水が必要です。海から陸に上がったわけですから。四六時中、水の中にいるようにベトッとした湿度に包まれていたいとまでは言いませんが、大気に水分を感じていたいのは、おそらく、人皆、そうでしょう。それを、彼の地では味わえないのですから。雨が降っていても、水と人間との間に、厚い膜があり、水分の存在を感じさせてくれないのです。こういう土地で暮らすのは、辛いですね。今回は一日ずつという行程でしたから、その厳しさの一端を窺ったような気がします。
さて、フフホトです。
M先生の学校では、いい学生達に会えました。一人は、勉強する習慣も根性もありそうに見えませんでしたので、日本語試験に合格してから話しましょうと言うことにしましたが、その他の学生達は、もし彼らが、この学校に来たいというならば、喜んで引き受けようという気になるような若者たちでした。
彼らは、「面接」とか、「合格した」とか、言っているようでしたが、これは「面接」というほどのものでもないし、「合格した」とか言うようなものでもないのです。
私たちは、お互いの「相性」を見ているのです。多くの学生は、その「相性」を探れないまま、日本へ来てしまいます。来てから、ホッと胸をなで下ろす学生もいますし、困ったと戸惑う学生も出てしまいます。それが、あらかじめ、来日の前に、こういう場を提供していただけると、「相性」を見合うことができますから、お互いのためになるのです。その上、彼らが、日本へ来たら、私が教えることになるのですから。
彼らを自分との「相性」を考えます。来日後、彼らを背負うことが出来るかどうかを考えるのです。私たち二人は、私たちが中国へ来ている間、学校を守ってくれている若い先生たちの代わりに来ているわけですから、いい加減に見ることはできません。何かあった時、若い人たちの代わりにこちらが出張っていかねばならないのですから、なおさらです。若い先生が、一生懸命に教えてくれる、その意に背くような学生も困るのです。
来日後の、彼らの厳しい生活は考慮しながらも、それに同情して、勉強しなくてもいいよなどとは言いません。彼らが頑張れば、私も多くの事を教えることができますし、彼らも多くの事を学ぶことができます。勉強する気がなければ、例え、私が「100」の知識を持っていたとしても、一つくらいしか教えることができなくなるのです。
だって、そうでしょう。「0.01」くらいの知識で、「アップアップ」と溺れかけている人に、「1」であろうが、「10」であろうが、詰め込めるわけはありません。無用な苦しみを与えるだけです。その人たちには、それなりに、楽に、望み通りの外国生活を過ごせる日本語学校へ行った方がいいのです。
その反対に、「100」入れても、まだまだ余裕のある人には、こちらも、更なる努力をしなければなりません。その分野における、さらに深く広い知識を獲得したり、或いは新たなる教材を開発したりしなければならないのです。この土俵の上では、私たちは、常に学生達よりも高く、また深く、幅広いところにいなければならないのです。そうでなければ、立場が逆になってしまいます。「学びたい」と学費を払って来ているのは、彼らの方なのですから。
実を言うと、忙しくて大変になるのは、この頑張り屋さんの学生相手の方なのです。が、教員から見れば、こちらの方が「やりがい」があり、「面白い」のです。
もっとも経営者の立場から見れば、そうではないでしょうけれど。教員の立場からでなく、経営者の立場(「経営者」という言い方がいいのか悪いのか判りません。が、「会社を持っていると思っている人の立場」から見たら、くらいの意味で、この言葉を使っています。つまり、ここで言うところの経営者は、「教育界」の人間ではありません)からは、必要な費用を出せる人なら、そして、大人しくて学校側に迷惑をかけなければ、誰でもいいのです。それどころか、二年で「初級」をウロウロしてくれる方がいいでしょう。経費も安くて済みますし。何となれば、レベルの高い教員を雇わずに済みますから、人件費も安くあがるのです。
「『上級』後」が、長ければ長いほど、こちらの準備も大変になりますし、お金もかかります。ここで言う「上級」は、「一級」レベルを指します。勿論、中国人の中には、「一級」に合格してしまえば、それで終わりと思っている人も少なくありません。出来れば、そういう人も振り落としたいのです。勉強する気がなければ、「私たちの」学生ではありません。日本へ行くだけだったら、既に「一級」に合格しているのですから、どこの日本語学校だっていいでしょう。
こういう人には解らないでしょうが、実は、日本語の勉強は、「一級後」が長いのです。「大学で」ではなく、「日本語学校においても」、そうなのです。「一級」に合格していたとて、「大学の授業」には、ついていけませんし、「会社の会議」に参加しても、多分、チンプンカンプンでしょう。
「一級後の勉強」は、日本語を勉強するのではなく、「既に獲得している低レベルの日本語」で、更に上級レベルの文章を読み書きし、また、聞いたり、話したりしながら、知識を増やしていくことなのです。「日本語『を』学ぶ」から、「日本語『で』学ぶ」に変わるのです。
これが判っていないければ、「私はすでに一級に合格しているから」と、思い上がり、せっかく日本語学校に籍を置いているのに、勉強をせず、大学や大学院に入れても、先生の言うことが判らずに落ちこぼれていくということにもなりかねません。
勿論、「感性」を必要とする類は、なかなか「学ぶ」事はできませんが、大方の知識は、「学ぶ」ことができます。「感性」の不足は、それで補えることもできるでしょう、ある程度は。
この学校は小さな学校で、学生が、一日でも休めば、その情報はその日のうちに、すべての教員に知れ渡ってしまいます。これは、まじめな学生が多ければ、教師にとっても学生にとっても、「プラス」に働くのですが、もし、学生の方が「出稼ぎ」感覚で来日しているようだったら、教師にとっては地獄となります。皆見えてしまいますから。どんなに自分が頑張っても、どうにもならない価値観を持ち、どうにも動かせない人たちが、学校にワンヤワンヤと存在しているということになり、まじめな仕事人肌の教師にとっては、阿鼻叫喚地獄であえぐという結果にもなってしまうのです。
今、在籍している学生の大半は、まじめです。つまり、教師にとっては、「生活面」で手がかかるのではなく、「教育面」で手をかけさせてくれるので、ありがたい限りの学生達なのです。学生達のレベルが高いとか低いとかは二の次です。勿論、教えたら直ぐに理解し覚えてくれた方がいいに決まっています。けれども、そうでなくともいいのです。いわれた通りに宿題もし、忙しい時間を調節し、「やれ」と言われれば予習・復習までやってくる。そういう気持ちが大切なのです。そういう学生を教師は見捨てることができません。頭のいい学生も大切、日本語の学習にそれほど適さない学生も大切。これは持って生まれたもので、親を恨んでも仕方がないのと同じです。
来日目的が、「日本語の学習」ではない学生であろうと、自分の「在日資格」が「日本語を学びたい」ということで、得られているということを、自覚してさえいれば、そこには自ずから行動に制限がつきます。毎日学校に来るということです。それが実行できていれば、自然と日本語も上達しますし、そうなれば、また別な欲、つまり、進学したいという気持ちも芽生えてくるでしょう。そうして、勉強にも励んでくれるようになれば、いい結果に繋がっていくでしょう。
私たちは、「人情的」になることを畏れます。それよりも、「人間的」でありたいと思っています。こういう仕事をしていますと、「かわいそう」と思うことが多々あるのですが、情に負けて何かを彼らのためにしてやっても、それが彼らのためにもならず、そして、他の人たちのためにもならず、却って、罪作りをしてしまったと言うこともあるのです。
「人情的」であることは、簡単ですが、「人間的」であろうとするのは、難しいことです。それは、あるときは「情なし」にも見え、人の非難を呼ぶこともありますから。けれど、「教育」に携わる以上、結果の見えない大海に浮かんでいるようなものですから、そこには自分自身に対する、一分の理屈が必要になります。それが『人間的』であろうとする」ということなのでしょう。
日々是好日