日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『頑なさ』を持つ『困ったさん』の、もう一つの『すばらしさ』」。

2009-04-30 07:35:23 | 日本語の授業
予報通り、いいお天気が続いています。今朝もくっきりと晴れ渡っています。昼は暑くなるとのことですが、朝晩は、肌寒いほどです。なんと言っても、旧暦でしたら、まだ、卯月の上旬といったところなのですから。

 ところで、「頑なさ」についてです。こういう仕事をしている関係もあるのでしょうが、初めは、そういう人に対して「困ったなあ」とため息をついていました。しかしながら、最近、それを、否定的に見ることに、ためらいを覚えるようになったのです。

 勿論、学生があまりに「頑な」で、言語の拠って立つ所の(日本の)文化を無視したり、日本語に対する勘が悪すぎるとなると、私とて、腹が立つのは事実です。ここは日本語を教えるところで、日本語を学びたいと来ているはずなのですから。
 が、それとは別の面で、「ま、いいか」という心が生じてきたのです。

 これまで、この学校にも、「どうして『日本語学校』に来てしまったのだろう」と、こちらが不安に駆られてしまうような人が、時々、入ってきていました。この人達は、別に学習能力が劣っているというわけではないのです。理解力は人並み以上にある人もいました。ただ、「他者の言語」を学習するに、「適さない」のです。

 既に親しんでいた言語(母語)に、頭の先からつま先までどっぷりと浸かっていて、よそ者が入り込む余地がないのです。言語に関する限り、「融通無碍」のはずの心が、新参者を敵視し、排斥しようと躍起になっているとしか見えないのです。

 その上、残念なことに、そういう人の大半は、自分の日本語が、日本人にうまく通じていると思い込んでいます。実際は、通じていないのにも拘わらず。彼らの思考回路は、本当に見事に、日本人のそれとは、重なり合わないのです。思考回路が、どうも交わるところなく、平行線で進むか、或いは立体交差で、ずれてしまうようなのです。
 私にしても、「なぜ(彼、或いは彼女は)こう言うのであろうか」と、さんざん頭を捻った挙げ句、それから、「ああ、こう考えて、それで、ああ言ったのか」と、間の抜けた頃に合点するくらいなのですから。

 外国人とそれほどの交流がない人だったら、「いったい、どう言うつもりなのか」と、きっと宇宙人を見るような目つきで見てしまうことでしょう。

 これは、注意すれば直せものであるかというと、そういうものでもないようなのです。このような回路を一本ずつ、「この時は、こう。あの時は、ああ言う」というふうに配置し直さねばならないのです。が、それとても、四六時中、私たちが彼らの傍にへばり付いているわけにもいきませんから、見落としも多いのです。帰納的に考えていくことが、(言語においては)うまくできないようなのです。全くこれは、どうしてこうなるのかと、こちらの方が歯がゆくなってしまうくらいなのです。

 もっとも、当人は、通じていないことすら、わからないようで、アッケラカンとしています。自分の話す日本語が、日本人にわかっていないということを知ったら、きっと驚いて腰を抜かしてしまうかもしれません。

 けれど、これを別の面から見ますと、どこへ行こうと自国の文化を「カタツムリの殻」のように背負っているわけですから、すばらしいことだと言わざるを得ないのです。日本語学校に、日本語を勉強すると言って来たのが間違いだったと言うだけのことで、「流行に流されない」とか、「利害得失に左右されない『頑な』な頭脳を持っている」というのは、ある意味では、自国の文化を後世に伝える得難い素質を持っている人と言えるでしょう。

 私は、これまで、日本は島国で、しかも小さい国だから、何でも、相手に合わせようとしてしまうのだと思っていました。けれど、日本よりも小さい国なのに、また、大海に孤立する島国であるにも拘わらず、そういう国民性を持っていないという所が少なくないのです。

 口では、いかにも相手に従うかのようでありながら、また、優しく、自己主張が全くないように見えながら、一皮むくと、岩盤のような殻に包まれた「自国の言語、自国の文化、自国の風土に適した思考方法」が、逞しく存在を誇示しているのです。

 恥ずかしながら、私は中国語を学んでいる時、相手に呑み込まれないようにするのが、やっとでした。「死ぬのは日本じゃなければ嫌だ」と思っていましたし、「日本人のまま」でいたかったからです。つまり、努力しなければ、「日本人たる自分」を維持できなかった部分があったのです(勿論、これは、考え方だけです。他国にいたわけですから、他国の人が嫌がるようなことは、しないようにしていました。相手に合わせる必要があったのです。それが嫌な人は、帰ればいいのです。大半の人には、自分の立派な国があるのですから)。

 しかし、「頑な」な人は、何も無理をしなくても、「生まれ育った国の人」のままでいられるのです。もしかしたら、地球が、英語に席巻されているかのように思われる今も、そして、将来も、自国の文化を守り、言語を守っていくのは、こういう人達なのかもしれません。
 「頑なさ」というのは、「バベルの塔」を憎んだ神が、人類が存在する限り、あらしめようと決意した、一つの「毒の種」なのかもしれません。けれども、考えようによっては、人類を救うことになるかもしれない「多様性の種」なのです。私には、そのよい面しか、今は考えられないのですが。

日々是好
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