日本語学校からこんにちは ~水野外語学院日本語科~

TOKYOベイエリア,市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『俗謡』とは、人の心の虫を捕らえるもの」。

2009-04-24 08:05:08 | 日本語の授業
 今朝の空は、昨日のように「真っ青」とはいかないようです。夜中には雨も降り出すようですし。ただ、まだ日差しはあります。この、いいお天気も、今日までということになりそうです。

 私事になりますが、何となく、やるせない時、『梁塵秘抄』や『達節小歌』、『閑吟集』などの、いわゆる「小唄」が口をついて出てくることがあります。
 大上段に振りかざした「詩歌」と称される「正統派」もよいけれど、人の心に巣くう虫は、どこかしら、それでは解決できない思いを抱いているようです。

 「ただ 人は 情(なさ)けあれ  夢の夢の夢の  昨日(きのふ)は今日(けふ)の いにしへ  今日(けふ)は 明日(あす)の むかし」

 「憂(う)きも 一時(ひととき) 嬉(うれ)しきも  思ひ覚ませば 夢候(ぞろ)よ」

 「思うたを 思うたが 思うたかの  思はぬを思うたが 思うたかよの」

 刹那の感情というものを、言葉で切り取るというのは、非常に難しいことです。ポロポロと落ちていくどころか、時によっては、塊りで、網を蹴破るように落ちていきます。
 しかも、落ちていったもののほうが、残されたものより、真実の分量が多かったなどという笑えない話もあることですし。

 言葉にならぬ「思い」を、全く今の気持ちとは関係のない「事象」、或いは「場面」で表すという、一種の「追い詰められた」表現方法があります。それが、時として、当時の人々の真実を窺わせることにもなります。
 仮託された「思い」というのは、言葉の枠を超えていくものです。千年の時を超えるものとしては、その方がふさわしい場合も少なくありません。

 こういう「小唄」をよみ、心の中で、数を数えるようになぞっている時、心は時を超え、いつしか、当時の人々と心を通わせ、その「場」に座しているというような感覚に陥ることもあります。もちろん、これを「手前勝手な言いよう」と嗤うこともできるでしょう。

 戦乱の続く世、しかも、今、保たれている命が、一時(いっとき)後には、失せているかもしれないような時代に生きた人々の「刹那的な感情」に支配されていた「生き様」と、平和であるがゆえに、「最低限の、ここに『ある』ことすら、幸運と感じる」ことが、わからなくなっている「現日本人」とは、本来ならば、繋がりようもなく、それは、ただ「そんな気がする」だけに過ぎないのかもしれません。当時の人々の感性と、我々のそれとは、また、全く違うでしょうし。

 けれど、奥深いところで、共に存在している「虚無」的な要素は、とてつもなく、しっかりと手を握り合っているような気がするのです。

 日本では、「平和」は「1945年8月」から続いています。「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」などへの、日本政府による「貢献」はありましたし、後の中東戦争における「貢献」もありました。が、生まれた時から戦争や紛争、戦いというものを知らない人間が、この日本では、ゴロゴロしているのです。
 国家間や民族間の、宗教やイデオロギーによる戦争ないし紛争が、地球規模で広がっている現代においては、この国の有り様は、「奇跡」としか言いようがないでしょう。

 けれど、今、日本人の中に、この状態を「ぬるま湯」のようだと感じている人が数多く出ているのです。「平和」とは、「得難いものだ」と思わずに、何か、自分に枷を填めるもの、変わりたいのに、今の自分から抜け出せない、その原因ででもあるかのように、見なしているのです。

 人間の「本性」というのは、「戦い」を好むものなのでしょうか。あるいは、「戦いの世」を当然と見なすものなのでしょうか。
 人というのは、「すばらしい存在である」と思いはするものの、平和が続くと、荒々しい嵐を恋い慕い始める「危うい存在」にも思えてくるのです。

 全き平和の世に住んでいる人間と、いつ死が襲ってくるかもわからない戦乱の世の人間と、一見したところ、全く共通点がないようにも思われます。
 しかも、そういう時代に生きた人と、我々とは、ものに対する感性も違うはずです。
 その上、今の日本人は、本来ならば、何事かに、「追い詰められて」など、いないはずです。

 ところが、今の日本人は、何かに「飢えている」ようなのです。何かに「焦がれている」ようなのです。生きていることさえ、不思議であった時代と、その気持ちに、その一点で、つながりが生じているような気がしてならないのです。

 それを、人々の目の前に曝し、自分は、「ヒト」という「動物の尾っぽ」から逃れられない存在であることを気づかせるのが、いわゆる「俗謡」と称されているものなのかもしれません。

 しかしながら、言葉というのは不思議な存在です。ある言葉を発見し、それを遣ってみる。ぴったりだとその時は、誇らしく思ったり、感動したりするかもしれません。しかしながら、その時が過ぎれば、もしかしたら、それはもう「うそ」になっているかもしれないのです。それに、言葉を重ねれば重ねるほど、その人の気持ちとは遠ざかるということもあるのです。

日々是好日
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