日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「『教室』を、多国籍にする理由」。

2008-12-17 08:11:30 | 日本語の授業
 危ないところでした。もう少し遅かったら、自転車で来られなくなるところでした。ばらばらと雨が降っています。今朝は、朝のうちから、雨が降り出すという予報は当たりましたね。

 随分以前からあった「まじない」の一つに、「(フグを食べた後に)『天気予報、天気予報』と唱えれば、(フグの)毒に当たらない」というのがありました。当時の人が、天気予報が当たらないことを揶揄したのでしょう。勿論、現代の科学をもってしても、お天気の予報は難しいところですから、明治・大正の頃ともなれば、「何をか言はんや」です。特に、夏の夕立などは「馬の背を分ける」といわれたくらいですもの。

 「冬の雨」というのは、学生達にとって辛いものです。特に「午後のクラス」の就学生達は、授業が終わってから、アルバイトへ行くということになりますから、なおさら辛いのです。しかも、大半が自転車での往復。雨は大敵です。

 以前、南の国から来た女子就学生の、(雨が降った時の)格好を見て驚いたことがあります。ダウンを着たその上に、夜釣りをする人が着るような厚い防寒具を着て、走っていたのです。「これだったら、大丈夫」と言って微笑んでいましたが。

 彼らの国では、良家の子女が、まずそんな姿になることもないでしょうし、日が暮れてから、一人で外にいるということもないでしょう。まして、女性がアルバイトに行くために、一人で、夜、自転車を走らせているというようなこともないでしょう。

 彼女は、見事に大学に合格できましたが、同じ国から来た男子就学生に、(こういう生活をしていたので)ひどいことを言われたこともあるやに聞きました。母国にいる時は、恵まれた環境にあり、乳母日傘で育ってきたにしても、日本ではそういうわけにはいきません。彼女は、環境に順応して、一人前に(他の国から来た就学生達と同じような行動をとっていたにすぎないのですが)生活していただけなのに、同じ国から来た男性から見れば、「不届きな女」に見えたのかもしれません。

 彼女は、それに負けずに、がんばり抜くことができましたが、おかしな噂をばらまかれて、結局は「親に帰された」人もいました。「女性の独り立ち」を阻むものは、遙か彼方に、(本当は)離れているはずの、「かつて属していた社会」なのかもしれません。男性は、そう言う社会から来た者同士が庇い合い、「旅の恥は掻き捨て」とばかりの行動をとっている者も少なくありませんでしたが、女性はそうではなくとも、色眼鏡で見られてしまうのでしょう。

 私たちは、当然のように「道徳」と言い、「社会のルール」と言います。これは「してはいけないこと」なのです。法律で、罰することは出来ないけれども、してはいけないことなのです。その中に、「女性が、仕事をして、夜遅く帰る」ことは含まれていません。日本の治安状態の良さ(悪くなったとしても、まだまだ、一人で歩けます)が、そうせしめているということもあるでしょうが、これで、女性の価値が貶められることは、まず、ないのです。

 けれども、ある国から来た人達は、母国で、「両親」か、「宗教指導者」に、そう教えられてきたので、だから、「日本でもそうしなければならないし、他の者もそうすべきだ」と思いこんでいるのです。当然ですが、そういう国の人は、我々から見れば、いわゆる「男尊女卑」の国であり、「父権」の強い国であるように思われます。それも、自分で考えて納得しているのではなく、常に「だれかに言われて、その言いつけをきくことがいい人と言われて」過ごしてきているにすぎぬのです。

 その「両親」や「宗教指導者」も、日本の治安状態や、日本の習慣などは知りませんから、「自分の国でのこと」として、意見を述べたり、指示を出したりするのでしょう、問われれば。

 当然のことながら、「日本の実情」にそぐわない意見ですから、愚かしいものです。けれど、それを聞いたものは、「両親やあのようなすばらしい宗教指導者が言ったことだ。だから、自分は正しい」と思ったり、行動したりするのでしょう。

 勿論、このような事が通用するのは、そういう国の人達が大半を占め、しかも、固まっている場合だけです。他の国の人達と混ざり合い、他の国の人達の価値観を受け入れざるを得ないような情況に入っていれば、もうそんなことで、ばからしい自分の国の「道徳」を振りかざしたりはできないでしょう。そうしたとしても、他の国から来た人達に、「馬鹿にされるか、無視されるか」のどちらかなのですから。

 「日本語を、外国から来た人達に(日本語学校で)教える」という仕事をしていると、こういう「クラス」が「生き物」であるかのように思えてなりません。一年ごとと言うより、数ヶ月ごと、或いは何日かごとに姿と変えるのです。その「クラス」に属する学生が変わるたびに、新しい姿になるのです。学生を生かすも殺すも、クラス編成であると、つくづく考えさせられます。

 人が変わって、或いは新しい人が入ることにより、意外な成り行きになるのです。主に「日本語のレベル」によって、クラスは編成されているのですが、クラスの中に、同じ国から来た人達が大半を占めるようなことになると、「その国の『ルール』」が、「(日本にありながら)そのクラスの『ルール』」になってしまうのです。

 先ほど述べた、「女性が、夜、一人で帰る」ということもそうです。「女性が仕事をする」ということもそうです。

 日本では、女性が夜遅く道を歩いていても、だから危険だということはあまりありません。治安がいいのです。けれども、そうでない国は、「女性は、夜、一人で出歩いてはいけない。出歩くものではない。夜仕事をするものではない。そう言うことをするのは、悪い女だ。いい家の女ではない」になるのです。外国へ来ても、同じ国から来た連中でまとまっていれば、考え方は変わりません。そして、そういう目で、日本でがんばっている同国人女性を見てしまうのです。

 このような意味からも、同じ国から来た人だけが、大半を占めるような学校は(日本語学校としても)、あまりいいことではありません。ここは彼らの国ではないのですから、しかも、日本の習慣・文化を理解せずして、日本語が上達するわけがないのです。勿論、外国人が対象ですから、日本でありながら、教室の中は、教師以外はすべて外国人です。つまり、日本を彼らに知らしめるのは、教師だけということになるのです。大半が同じ国から来た人で占められてしまうと、彼らの心に、日本人たる教師の言葉が届きにくくなるのです。それは避けるべきですし、避けるべくしなければなりません。

 というわけで、今では、いろいろな国から来た就学生が、この学校で学んでいます。文化も、習慣も違います。しかし、それは、学生達の目には個性として映り、他者が他者をあざとくするといった面は、影を潜めました。やはり、土俵は日本でないと、私たちも戦いにくいのです。

日々是好日
コメント
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