お盆で浮遊霊ゾワゾワ・・。
意地悪な性質の人が勢いづいている。
話が噛み合わない。
物事がギクシャクして収拾がつかない。
身辺を掻き回す人を良く観察し、来年のお盆時期の対策にして欲しい。
人を苦しめて喜ぶ浮遊霊や魔の媒体となるのは、心に妬み、怒り、劣等感、弱さを持つ人。
16日頃からは墓穴を掘り、荒くれて人に成した事がその人に返っていく。
もしくは、調和が戻り壊れた関係から真実が見えてきて、自分が知ってよかった経験になると思う。
魂磨きを望む人には、「良かった」結末であって欲しい。
話は飛んでしまうが・・
今、障害を持ちながら頑張っている方や御家族に思う事。
障害者は一つの動作さえ健常者の何倍かの負担や労力、思考があり苦難の連続だと思う。
そしてカトリック的な魂から言えば、障害者は生きているだけで、世の善悪のバランスを取る為にその苦難を背負って罪人の代わりに罪を償う、贖罪の魂なのだと学んだし・・・私もそう思う。
巡礼に行きその地の教会で、見知らぬ障害者と隣合ってミサに与った女性が、その障害者が自分の罪を代わりに償っている事を神から知らされ泣き崩れたと・・話を聞いた事がある。
また、「死後健常者は障害者の魂に膝まづき感謝しなければならないだろう。」という話もある。
今時は、集合意識という言葉は聞き慣れていると思うが、それと同じ事なのだと思う。
涙ながらに障害を生き抜く魂は、集合意識に働きかけるどころか、罪悪を打ち消す魂なのではないかと。
誰と限定できなくても、善悪のバランスという地球レベルの仕事に働きかける事が可能なのが、涙ながらに生き抜く障害者の魂なのだと今でも思う。
そしてその家族もまた障害者を支える事で同じ役目を果たしてくれていると。
残念ながら、その過酷な人生から闇に捕らわれてしまう例も昨今は多い。しつこい程「涙ながらに」を付けるのは、解りずらく認定されない障害が余りにも増え、長年ケアされずに、歪に捕らわれ魂を見失う人もいるから。
どんな大業であれ、魂の学びは本人にしか出来ない。
自分の死後、涙ながらに生き抜いた障害者の方々に感謝するのだと思うし、カトリックの修道的な考えではあるけれど、
「涙ながらに生き抜く障害者の魂が尊い事、
そして現世の罪悪に対し最強の魂」
である事を忘れない様に生きていきたい。