災害支援ボランティア 宮北会(みやきたかい)

東日本大震災後、岩手県宮古市・山田町で被災者との「顔の見える」交流活動を続けています

第七次 現地紀行(1)

2011-12-04 06:51:05 | 宮古・山田


新たな出会いと発見 第七次報告
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                                                                                             文責 江藤

   縫いぐるみに祈る 

  今回は、宮北会を初期から支えてくれていた大宮北高関係者(現役・元職員)の6人で行くことになった。地震・津波被害後、すぐに募金活動に生徒も含めて動いた北高教員の鵜飼さん。鵜飼さんの声掛けで、沢山の現役高校生が募金に参加してくれたり、手紙のやり取りも可能になったりしたのだ。人一倍行動力がある鵜飼さんを学校現場で支えてくれた富田さんと竹村さん。そしていち早く松島へ三月下旬にボランティア参加した成谷さん。

宮北会は最初、街頭での募金活動から出発した。その後成谷さんの報告会を開いて現地の様子を聞き、一点の拠点を築いて継続支援のボランティア活動をすることにしたことから始まる。宮古市との関係を作ることが出来たのは、この成谷さんの友人が宮古の市会議員である橋本氏と繋がっていたことによるのだ。橋本議員のおかげで宮古市崎山小学校避難所と山田町山田北小学校避難所に炊き出しボランティアに入ることになり、現在に至っている。成谷さんの動きはとても大きな影響を与えたと言っていい。第一回の炊き出しボランティアにも一緒に参加した。 

石坂さんは第二回の炊き出しボランティアでは、大量の食材下ごしらえに参加していた。機会があれば一度参加したいと言う声を聞いていた。石坂さんは、1995年の5月、神戸震災の後に私が「行きませんか?」と声を掛けたらすぐに「行きます」と返事をくれた人。とても行動力がある。神戸三宮駅前でビルとビルが斜めに持たれあい、偶然生まれた三角形の空間を抜けて歩くと言う、とても危険な状態でも全く動じなかったのが印象的だった。西宮市立西宮高校避難所にいた高校生の佐藤君に会ったり、焼け野原になった長田町の瓦礫の中を歩き回ったりしたことが思い出される。なにか私にとっては「戦友」のような感じでいる。たとえは悪いが。

このメンバーで行った。一日の強行軍である。切符やレンタカーはこういう事にめっぽう強い竹村さんが一番安い方法でとってくれた。一人当たり二千円近い減額になったという。朝6時半大宮駅集合。6時44分の新幹線に乗る。私はほとんど眠っていないのでさすがに疲れていた。どうやらみんなもあまりよく寝てはいないらしい。それでも座席を向い合せにしてのおしゃべりは楽しかった。それぞれの思いを載せて盛岡まであっという間の2時間だった。

盛岡からレンタカーに乗る。最初私は、盛岡でレンタカーを借りて宮古で返す方法を考えていた。夜の山道が心配でもあったからだ。橋本議員が「こっちの人も冬になると山越えは躊躇するんですよ。道が凍結するとチョット危険ですからね」と言ったことがあったからだ。でもみんなは盛岡往復を選択した。考えてみればスキーや何かで慣れているのだ。問題はなかった。それに車の方がバスよりも時間の制約が少ないから助かる。実際、車でなければ今回の強行軍は難しかった感じだ。

 

田老町

成谷さんと私は田老町に行ったことがあるが、他の者は初めてだ。津波の破壊力のすごさは田老町の堤防破壊とそれによる町の全滅の状態をみるとよくわかる。同時に地形と津波、町の再建などの問題を考えることができるからだ。第一次の時、早朝6時に田老に車で入った時のショックは今でも忘れることができない。海だけは静かで、空は青く、港らしい痕跡はなく破壊された堤防周辺にはカラスとカモメだけが飛んでいたあの朝、ただ無言で私達は町を後にしたのだった。

 現地は、すっかり瓦礫が撤去されていた。まるでポンペイの遺跡のように、建物の土台の痕跡が残っているだけだった。初めてのみんなは、写真やビデオを取りながら動いていた。4月、漁協のビルにほど近い所を歩いていた時、放り出されてあった家財道具のなかに子ども用品が沢山散乱していた。赤ちゃん用のお風呂、縫いぐるみ、玩具、ペットの写真、ピアノ・・・。心痛んだ。歩くだけで子どもたちの声が聞こえてくるようだった。これらと遊んでいた子どもはどうなったのだろうか?涙がでてくるだけだった。しかしもう、そんな姿は何もなかった。あたかも、昔からそうであったかのように、遺跡のように整理された区割りだけが残っていた。すると、堤防下のところに、なにやら縫いぐるみが置いてあるではないか!すぐに近づいて見た。すると、大きな犬の縫いぐるみとクマさんの小さな縫いぐるみがちょこんと並んで置かれていた。その脇には小さな赤と黄色の玩具の自動車が。誰が置いたのかは分からない。でもきっと子どもがいた家族の誰かが置いたのに違いない。もしかしたら、4月に見たあの縫いぐるみがあった家族の誰かかも知れないと思った。あまりにも静かにそこには時間が流れていた。それだけに悲しみが深く深く迫ってくる。今はもうただ家々があったという地割と土台の痕跡しか見えないこの消滅した町では、一体どれだけの子どもたちが亡くなったのだろうか?どれだけの悲しみがここにはあるのだろうか・・・、どうか安らかに眠ってください。子どもの姿を思いながら静かに手を合わせた。

 

4月10日(第一次)の時に下の写真と同じ場所近くにあった縫いぐるみ


 

11月23日(第七次)に行った時にあった縫いぐるみ


 

山のふもとにある青い屋根の田老第一中学校が見える(写真左:4月10日/写真右:11月23日)

(続く)

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1 コメント

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ブログ開設 ( momo)
2011-12-04 21:53:23
 ブログ開設ありがとうございます。
 報告会にも出席できなかったのですが
 これで情報を追うことができて、近いうちに
 私も山田町に行きたいと思っています。
  関わっている支援グループの動き方の確認 に使わせていただきますね。

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