災害支援ボランティア 宮北会(みやきたかい)

東日本大震災後、岩手県宮古市・山田町で被災者との「顔の見える」交流活動を続けています

山田町出身の会員の方からの想い

2018-03-05 12:37:57 | 挨拶・回想

昨日のさいたま市市民活動サポートセンターのフェスティバルの当会ブースにて、お話しをした山田町の方が会場で当会の会員になられました。

先のブログでも紹介しましたが、初めての山田町ご出身の宮北会会員です。

その想いを、メールにて寄せていただきましたので、以下にご紹介(原文のまま)いたします。

嶋田憲一

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昨日図書館に行ったついでに寄って素晴らしい出会いがありました。 
 
3月になると年々忘れ去られる震災のこと。
震災で日本人は何を学んだのだろうか?
原発の怖さ、絆、あれはなんだったんだろうか。
政治家は経済優先で格差を広げるキッカケになってしまってはいませんか?
そんなことを思い哀しい時期です。
 
故郷の山田町のために何もできない自分に代わり、皆さんが
「顔の見える交流」
テーマに活動を継続しいることに、本当に心から感謝します。
 
政治はパフォーマンスだけで期待出来ません。
草の根の市民活動こそが本当に尊いものだと思います。
震災という悲しい出来事が縁かもしれませんが、
今後とも「支援」を超えた「交流」が継続していくことを願っています。
 
私も微力ですが仲間に加わり、セカンドライフをキッカケにしたいと考えています。
 
外舘様(岩手県山田町出身・さいたま市在住)
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平成30年の初頭に想うこと for 北浜老人クラブ新年会

2018-02-04 15:14:30 | 挨拶・回想

以下、北浜老人クラブの新年会(1月13日)に届けた事務局・嶋田のメッセージです。 

成30年の初頭に想うこと

寒に入り、寒さ一段と厳しくなってきましたが、お元気で新年をお迎えの事と思います。

本年も顔の見える交流、よろしくお願いいたします。

以下は、東海林さんから要請をいただきました年頭の所感です。 

【東北との繋がり】

今から60年前の昭和33年 小学6年の夏休み、初めて一人で蒸気機関車が牽引する夜行急行「十和田」号に乗って祖母と叔父が住む青森県八戸に行きました。「汽車」好きの私は、停車するたびに駅のホームに降り立ち、機関車を確認したり、駅毎の匂い空気を吸ったりして夜通し起きていました。夏の早朝、盛岡駅の匂い、日の出前の岩手富士のシルエット、乗る喜びとともに切符を落としてはならないとの緊張感、尻内駅(現在の八戸駅)で待っていた叔父と会いホッとした事、今でも記憶に残っています。これが東北地方への最初の旅行で、その後の東北への愛着へと繋がったのでした。

 

(青森港にて・入港中の青函連絡船は羊蹄丸 1958.8.21 )

山田町を初めて訪れたのは、2007年、定年後最初の夏、航海訓練所の練習帆船「海王丸」で新潟港から釜石港まで体験乗船をした帰途でした。釜石港で下船後、宮古で宿を取り三陸の海の幸を存分に堪能しました。釜石から宮古への移動は三陸鉄道。途中、陸中山田駅で下りと上りの列車交換での短い合間に、山田の匂いを求めてホームへ降りました。ホームには、「歓迎 碧い海・青い空の山田町へよくきたなんし」と書かれた看板、さらに構内の跨線橋の壁面に掛かれた鯨の絵が印象に残っています。 

(陸中山田駅にて 2007.8.9)

【震災直後の経緯】

そして2011年3月11日、東日本大震災。

この日、定年後の再就職で都内にてセミナーの運営の仕事中でした。これまでに経験のない揺れにより、悲鳴を上げる大勢の受講生に落ち着いた行動をと指示したり、セミナー続行不能の対応を取ったりする中、会場事務室でのテレビで津波の速報映像を目にし、「これはただ事でない・・・」と。首都圏の交通状況から、大宮の自宅へ帰ったのは、翌日の夕方でした。

その後の一週間、津波や福島原発の惨状を伝えるテレビの映像を見るたびに災害の激しさ恐ろしさを知り、「何かやらなければ、何かやれることがあるのでは」との気持ちが沸き、3月19日から大宮駅、さいたま新都心駅での募金活動、双葉町の集団避難所となった「さいたまスーパーアリーナ」での配膳、段ボール調達を手伝っていました。

3月末に約1週間、韓国に留学中の江藤先生を訪ねる計画は中止、江藤先生は急遽帰国し支援活動の企画を提案。大宮北高の生徒たちと一緒にさいたま新都心駅で募金を行い、また先行して東松島市の被災地で支援活動をしてきた成谷さんから現地の実情を聞き、具体的に被災地への行動を起こそうと決まったのが4月3日でした。訪問先については、成谷さんのツテで宮古市議の橋本久夫さんをご紹介いただき、「宮古」への炊き出し支援、出発は4月8日と決まりました。水も含めて全ての食材、機材を大宮から運ぶ準備、買い出し、直前の仕込みと多くの方々の応援を得ました。

前日まで、現地への参加者は7名の予定でした。最終的には、4月8日17時に大宮北高の駐車場から2台の車に分乗して、江藤・成谷・秋山・嶋田の4名が、急遽追加となった「山田町」へ、その後「宮古」へと向かいました。

(出発!大宮北高にて 2011.4.8)

以下、当時の記録から。

大宮 [4月8日]17:00→盛岡南IC [4月9日]02:05→宮古市古田バス停(仮眠)3:05~5:10→宮古市役所前(被災確認)5:45~5:55→山田町役場(被災確認)6:45~7:30→山田北小学校(炊き出し150食)7:40~14:10→宮古市崎山小学校(炊き出し100食)15:10~19:20→宮古市シーアリーナ駐車場(車内泊)19:40~[4月10日] 6:25→田老6:50~7:30→盛岡南IC9:50→大宮19:00

仮眠した古田バス停から、宮古市役所の横を通り国道を山田町へ。山田町の大沢に入り、沿道の光景が一転、山田町役場の駐車場に車を停め、変わり果てた街並みに出る言葉がありませんでした。ただしあまりにも鮮烈な光景に、どこをどう歩いて何をしたか今でも脳裏に明確に焼き付いています。

(山田町役場横にて 2017.4.9)

山田北小学校へ向かい、雨が降っていたので体育館横の土俵の屋根の下で、炊き出しを開始。150食と云う経験のない量の「味噌けんちん汁」。

(山田北小学校にて 2017.4.9)

事前の下ごしらえ、レシピのお陰で、12時ちょうどに配膳。

この昼休みに、東海林さんとの出会い、この出逢いこそがその後の宮北会と北浜老人クラブの交流を決定づけたと言えます。

 

(山田北小学校にて 2017.4.9)

【交流での想い】

その後、これまで宮北会として、現地支援・交流を続けて訪問30回になります。私自身、2015年秋に体調を崩して無念ながら、ここ直近6回連続参加出来ず19回にとどまっています。

これまで現地で過ごした時間すべてが1分・1秒の無駄なく、私の財産になっています。

当初は、お手伝いすることが出来、そして現地の状況を知ることが出来ればとの想いでした。しかし、皆さんから素直な気持ちでのお話を聞かせていただき、また明日に向かって進まなければとの強い前向きな生き様に接して、最初は躊躇していた写真撮影も記録として残したい、更に一緒に過ごした時間を楽しみたいと想うようになって行きました。昨年は7名の方々が埼玉に来られ、双方向の交流、画期的でした。これまでの交流により、北浜の皆さんが厳しい現実の中で厳しいからこそ、そこから脱出しようと云う目標に向かって邁進している元気さ一途さを感じたものです。ぬるま湯に浸かっている自分を目覚めさせてくれました。体調不良後、ともすると前を向いていない自分に気が付き、北浜の皆さんの事を思い出し、奮い立たせています。

【これからの想い】

今年は2018年、平成で30年、来年は元号が変わり、歴史は進みます。

7年間に亘って山田と埼玉との交流を通して得た結束が、さらに深く深く繋がりを強め、新たな歴史・風景が刻まれることが楽しみです。今度の3月で震災から7年、「慰霊と感謝の碑」が建てられるとの事、節目になる実に大きな事業です。

この碑が山田に建ち、価値ある歴史・風景となる第一歩をこの眼で確かめたい気持ちで一杯です。

この正月に読んだ本『絶望している暇はない --左手のピアニストの超前向き思考--』(舘野 泉 著-小学館) に、ショックを受けチカラを得ました。その本は、81歳のピアニストが脳溢血により左手だけで演奏活動を続け、常に前向きで新しい世界に対する好奇心あふれている著者の処世訓です。新書本で大きな字で書かれて読みやすい本です。一部お送りしましたので、是非ご一読ください。

私は今年の年賀状に『人生のGoalを見据えて、これからの日々楽しく悔いなく過ごしたい』と決意を書いたものの、見えないゴールをどう捉えようかと迷っていました。この本から、「この時、この瞬間を生きようとしている」から、著者が生き生きしているのだと思うようになりました。

今年の決意を、『今を、楽しく悔いなく過ごしたい』と変更します。

今年は、機会があれば舘野さんの左手のピアノ演奏を一度聴いてみたいし、3月には、北浜の皆様と山田でお会い出来ることを楽しみにしています。

厳しい寒さが続き春には遠い季節ですが、素敵な1年となりますよう心から祈っています。

2011年1月11日

宮北会 事務局・嶋田憲一

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あの悲しみに向き合い、乗り越えた山田町北浜老人クラブの皆様へ

2018-02-03 18:33:09 | 挨拶・回想

以下、北浜老人クラブの新年会(1月13日)に届けた江藤代表のメッセージです。

==あの悲しみに向き合い、乗り越えた山田町北浜老人クラブの皆様へ== 

あの日、あの時から 

私達の最初の出会いは、避難所であった山田北小学校の体育館でした。

自分達に何か出来ることはないだろうかと考え

宮北会を仲間と立ち上げました

一度きりで終わることなく、顔と顔が見える関係を作り

被災者の皆さんとずっと継続しておつきあいをするんだという

覚悟をきめました

みんなでトン汁の材料を買い

被災地と皆様を想いながら野菜を刻みました。

夕方、仲間たちから見送られて四人のメンバーで車が出発

震災で傷んだ高速道路を走り

盛岡から山を越えて宮古へ向かう山道で仮眠をし

そして、初めて自分の眼で震災の現実を実感しました

宮古から山田町に向かいながら、想像を絶した津波の被災の状況に

四人はひと声も出すことが出来ませんでした

そして、あの狭い避難所の体育館に入りました

卒業式直前の紅白の垂れ幕がかかったままの体育館には

ステージまでもびっしりと布団が敷かれ、皆さんが横たわっていました

あの光景はいつまでも目に焼き付いています

あの時の皆様の心はいかほどであったのでしょうか

どれだけの悲しみが、どれほどの絶望が渦巻いていたでしょうか

私達ができることは、せめて温かいトン汁を食べてもらうことしかありませんでした

ささやかなトン汁を差し出すと、「ありがとうございます」と

温かな思いやりの返事を頂きました

食べていただけるだけで十分なのに、

こちらこそ「ありがとうございます」という思いで涙がでました。

私達には、それしかなかったのですから

・・・・・

津波のあの日から

そして北小での出会いのあの時から

長い時間が経ちました

皆様の一人一人には、きっときっと

辛く重い時間だったことでしょう、悔しく苦しい時間であったことでしょう

それでもいつも

北浜老人クラブの皆様は優しく迎えてくれました

歌を歌い、素晴らしい踊りを披露しくれました

本当にありがとうございます

きっとその笑顔は

悲しみや苦しみに向き合いながらも

それをのり越えようと、互いに励まし合いってきた

そこから生まれたものなのでしょう

悲しみを本当に悲しみ

苦しみを本当に苦しんだ、そこから生まれてきた

優しさであり、微笑みなのでしょう

だからこそ

埼玉の私たちは、心うたれます

だからこそ

ずっとずっと、これからも皆様の傍にいたいと思うのです

・・・・・


いつの間にか

埼玉と山田の距離は遠いですが

心の距離はすぐ近くになっていることを実感しています。

 

春はもうすぐやって来ますが、

まだまだ本当の心の安らぎの春にはなっていません

その日が来るまで、皆様の傍にいさせてもらいたいと思っています

 

これが、皆様へ思いを馳せる宮北会一同の思いです

どうかこれからも

よろしくお願いいたします。

20181

宮北会代表   江藤善章           

                               

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宮北会 2016・年頭のご挨拶

2016-01-01 00:01:14 | 挨拶・回想

被災地の皆様へ

 

隣人でありたい

何はともあれ、隣人として寄り添いたい

埼玉という遠い所から、思いを馳せている人がいる

そのことだけを知ってもらいたい

けして、押し付けでもなく

義務でもなく

血縁でもなく

近隣でもない

知り合いでもなく

これまで、なんの関わりもない

そんな

遠い埼玉という所に住む者が

ずっとずっと

思いを寄せていることを知ってもらえれば

それだけで十分。

それに

私たちは何の力もない

傍に行って手伝うことも

頻繁に、訪ねてお話を聞くことも

日々の喜びや

日々の悲しみや

日々のしんどさを聞くことも

何もできません

埼玉はあまりに遠い。

 

でも、それでも、

心だけは傍にいたい

皆さんが、皆さんだけでなく

皆様の哀しみが皆さんだけの哀しみでなく

皆さんの喜びが皆さんだけの喜びでなく

共に分かち合える

遠くの隣人でありたい。

 

被災地の皆さんのおかげで

きっと

私たちも生かされてきた日々があったはず

みなさんたちの尊い働きが

今の私たちの暮らしにつながっていたはず

皆さんがいて

今の日本があったはず

そんな思いで

誕生日にメッセージを書く

たった一日でも

心穏やかになれるのならと

私たちの心を、色紙と花束に託して贈る

受け取ってくれるだけで十分。

笑顔を見るだけで

私たちは嬉しい。

それだけで、

より近くにいるように思えるから

隣人として

また、この一年を動いていきたいと思う。

↑ 大宮氷川神社

↑ 大宮公園

宮北会代表 江藤善章

 

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宮北会 2015年・年頭のご挨拶

2014-12-31 11:12:44 | 挨拶・回想

2015年。新しい年が明けました。

被災者の皆様、そして宮北会に関わる全ての皆様にも、良き年であることを心から願っております。

以下、江藤代表からの年頭のご挨拶です。じっくり読んでください。

 

 偉大な「マンネリ」を目指す

 毎月一回の定例会では、老人クラブの会員の誕生日に贈る色紙などの作業をしながら、みんなが近況を話したり、感想を話したりと自由に話が語られています。それはとても楽しく、大切な時間になっています。話しながら山田の人々や、共に集い活動するみんなの心の交流となっているからです。

 

ある時、今後の活動についての話をしているときに、「マンネリ」という言葉が出てきました。「マンネリになってしまっていいのだろうか」という真摯な自戒の言葉でした。その言葉を聞いて、「マンネリ」という言葉の否定的な響きに対して、すぐに「偉大なマンネリで行きましょうよ」と私は強く語りました。そうなのです、私たちの活動の目指すところは「マンネリ」というところまで行くことだと思うのです。親が子どもの誕生日に、その子が生まれるまでの事情と、育ちあがるそれまでの経過を思い出さない人は居ません。子どもが親の誕生日を想い、自分の誕生日を思うとき、自分が今あるまでの様々な過程を考えない人はいません。だから「生まれてきてよかったね、おめでとう!」と語り、「生んでくれてありがとう、今あることにありがとう」と思うのです。毎年毎年それは生きている限り続くことです。それはまさに「マンネリ」そのものであり、「偉大なるマンネリ」なのです。特別なことは継続できないが、普通のことは継続できるのです。  

 

当たり前のことが出来なくなること、それがどれだけ不幸なことなのかを今回の震災が教えてくれています。「特別なこと」が出来ないよりも「普通のこと」が出来ない方が、悲しみは深いのです。私たちは「顔の見える関係」を目指しています。それは言い換えれば「普通の関係」になることです。特別な関係が生まれ、それが継続によって普通のことになる。誕生日に「おめでとうございます」とごく普通に声をかける関係になることです。受け取る側もそのままに「ありがとう」と応える、それでいいのです。「マンネリ」になることを意識して目指す限り、それはいつも新鮮であり続けるでしょう。

 

 これから被災者と被災地域に対しておこる非難の言葉は決まっている。「いつまでも・・」という言葉になることでしょう。その「いつまでも・・・」の言葉が被災者の心と体をどれだけずたずたにし、追い詰めていくのかを、考えもしない酷い言葉なのです。神戸の震災から6年たった時、1月17日の震災記念日の追悼式を準備していると、「いつまでもここで、震災記念なんかやられていたら、困るわ」と会場にしていた公園の周辺住民から苦情が起こり、記念会場の変更を余儀なくされた経験があります。おそらく同じ状況が出てくることは、今の流れでは必至でしょう。「今」忘れたい人たちがいて、「今」忘れさせたい政治がある限り必ずそうなるのです。私たちは、今ではなく「未来」に向かって動きましょう。それは「当たり前」になることを目指すということです。「いつまでもやる」ということです。亡くなった人たち、いまも苦しむ人たちのそばにいて、当たり前にお誕生日おめでとう!と声をかけられる関係を目指しましょう。それはまさに「偉大なるマンネリ」になることではないでしょうか。

 

宮北会 代表   江藤善章

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