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健康な食生活の原点は“朝食抜きの玄米菜食”=元禄時代以前の食生活

2012年12月25日 | 食養

健康な食生活の原点は“朝食抜きの玄米菜食”=元禄時代以前の食生活

 理想的な食生活とはどんなものでしょうか。
 国際的に捉えると、食事内容で最も高く評価されたのは、日本の江戸・元禄時代以前の「玄米菜食」です。これは、1977年に「マクガバン報告」の中で書かれているのですが、米国政府が世界中から学者を集め、7年の歳月をかけて詳細に調査研究された結果ですから、玄米菜食は世界一健康的な食事であると言えましょう。
 そして、理想的な食事回数はというと、その当時にとられていた「朝食抜きの1日2食」です。ただし、大して体を動かさない現代にあっては、紀元前の大昔の1日1食の方が、より理想的でしょう。

 先に、食事回数の変遷を、戦国時代以降について簡単にみておきましょう。
 元禄時代というと、徳川政権が安定し、平和が訪れた時期でして、それ以前となると、武士から農民まで、朝食抜き1日2食という食生活でした。戦(いくさ)や野良仕事が十分にこなせる質実剛健な体づくりは、胃袋が空の状態ではじめて可能なのです。
 ところが、元禄時代以前であっても、肉体労働をせず、安定した地位にあった僧侶(たぶん公家も)は、暇でもあり、口寂しさから既に朝食を取る文化を持っていました。
 こうしたことから、元禄時代の到来をもって、武士の食生活も僧侶化してしまい、朝食を取るようになって1日3食となり、江戸町人もその真似を始めます。
 でも、地方や農民は、朝食抜きの1日2食を通しました。
 明治になって、農民からの徴兵が始まると、武士の1日3食が兵食となり、兵役を解かれた者が田舎へ帰って1日3食を要求し、これが全国津図浦々まで広がります。
 こうして、
今日の日本人の食生活は、1日3食がよしとされてしまいました。
 そして、朝食を抜こうものなら、“朝食を抜くとは何事ぞ、健康に悪いに決まっている!必ず朝食を取りなさい!”と、国を挙げてバッシングされてしまいます。農林水産省、厚生労働省、文部科学省、皆、朝食キャンペーンをしていますし、栄養学者、医学者も、そうした主張をなさる先生方が多いです。
 でも、こんな国は世界広しと言えども日本だけです。
(朝食抜き1日2食ないし1食についての詳細は、朝食有害論の歴史的推移そして叩かれ続ける“朝食有害論”をご覧ください。)

 一方、食事内容も時代とともに変わってきます。元禄時代以前は、玄米菜食であったのですが、元禄時代になると、安定収入が得られる武士そして豊かになった江戸町人は、精米した白米を食べるようになり、一気にグルメ志向になります。遅れて大坂商人などにもこれが広まります。
 明治になって、兵隊募集の殺し文句の一つが、“1日3度白い飯が食える”でして、これによって農民層にも白米食が普及し始め、玄米食は姿を消します。もっとも、農民は、明治政府の富国強兵政策により、江戸時代よりきつい年貢が課せられたため、精米に麦や雑穀を多く混ぜた飯を食べるのが一般的でした。
 なお、完全な白米食になると、甘くて美味しいですから、おかずなしで、これを多食するようになって、江戸時代には“江戸わずらい”、明治時代は“かっけ”で悩まされることになります。ビタミンB1欠乏症です。
 白米食による最大の悲劇は、日露戦争における陸軍兵士の“かっけ”による病死者2万人で、軍医のトップ(訂正:戦争中までナンバー2、戦後にトップ)にいた森鴎外がその真犯人であることは知られざる事実です。
(この段落で訂正したのは、2017.6.29にNHKで本件について放映された事実に基づくものです。よくぞ放映したNHK、ご立派。番組名:フランケンシュタインの誘惑(科学史 闇の事件簿)「ビタミン×戦争×森鴎外」 <BS再放送 7.26 23:45 >)

 これを上回る食事内容の劇的変化は、第2次世界大戦後において起きたことは言うまでもないことですが、現在に至っては、毎食必ずと言ってよいほどに動物性たんぱく質が食卓に乗ります。そして、調理も同様に食用油が日常茶飯事的に使われます。
 加えて、腹八分がよしとされていますが、満腹になるまで飽食する傾向が強いです。
 これは、日本経済が成長して国民一人ひとりが豊かになり、洋風料理が一般化したことによることは、皆さん重々承知しておられるとおりです。
 しかし、ここでもまた、戦後暫くの間は、国を挙げて、動物性たんぱく質を取れ、油脂を取れ、日本を負かせた米国の食事が日本人の体にも一番良いものであると、一大キャンペーンが展開され、日本人は胃にもたれるのを我慢しつつ、洋風料理を食べさせられ続け、おかしな食い物に馴れさせられてきたのが、そもそもの始まりです。
 その結果、動物性たんぱく質も油脂も、今では度が過ぎてしまい、肉類は戦前の約16倍、油脂類は約19倍もが供給されるようになって、ほとんどの日本人の胃袋は悲鳴を上げている状態に陥っています。(その詳細については、油まみれの食生活、「油」断しませんか をご覧ください。)
 そして、このことに誰も気がついていないのです。皆の胃が弱くなると、弱っている状態が正常と勘違いしてしまい、それが普通とされてしまいますからね。中にはまれに丈夫な胃袋を持ち合わせておられる方がみえますが、そうした方はオバケ扱いされて、正常の範疇には入れてもらえないのです。
 日本人に胃ガンが突出して多いのは、胃が弱っているからですし、東南アジアなどへの旅行で、欧米人がどってことないのに日本人だけがコレラに感染するのも胃が弱いからです。なんせ、日本人の胃袋の厚みはドイツ人の3分の1しかない華奢な胃袋ですから、そこへ動物性たんぱく質や油脂がドカンと入ってきたら、胃袋はギブアップするしかないのは必然的なことです。また、胃が弱いから、たんぱく質が未消化となり、それが大腸で腐敗しますから、日本人の大腸ガンが、これまた突出して多くなってきています。

 現在の食生活を続けると、これから先、日本人の体はどうなるのでしょうね。
 世界一不健康な国民と言われるようになる恐れが多分にあります。
 それを小生が痛切に感じたのは、2か月ほど前の葬式のときです。お寺の大お庫裏様が亡くなられ、寺役員として葬式の準備を行うことになりました。通夜は30分ほどで終わったのですが、門徒の大半は境内で立ちっ放しで、腰が痛くなったと訴える者が多く、翌日の葬式が1時間半かかろうということでしたから、門徒全員を立たせておく訳には参らぬと相成り、急きょ椅子を手配して、腰掛けて参列していただくことにしたところです。
 12年前に、小生は親父の葬式を出したのですが、そのときは家でやりましたから、参列者は庭で1時間立ちっ放しでしたし、その頃は、たいていの葬式がそうしたもので、それが当たり前であって、それでもって腰が痛くなったと訴える者はまずいなかったです。
 その後、10年近く前から、当地では、葬式は町民センターや民間のホールでやるようになり、1時間も立ちっ放しということがマレになり、そうしたこともあって、皆、楽をしたがるのでしょうが、10年前に比べ、いかにも腰が弱くなったものだと感じたところです。
 10数年前になりましょうか、ジベタリアンという言葉が登場しました。今時の若者はどれだけの時間も立っていることができず、すぐ地べたに座りたがるということから生まれた造語ですが、今では、1億日本人皆、ジベタリアンになってしまった感がします。
 これは、運動不足による腰回りの筋肉の衰えなり、飽食による肥満で腰にかかる荷重が大きくなっていることもありましょうが、近年、段々おかしな物しか食わなくなってきたことが最大の原因ではないでしょうか。

 もう一つ、小生が感じたことについて紹介しておきましょう。それは、幼少の頃のことですが、うちの小学校の児童は、ほとんどが農家の子弟であって、肥満児は一人もいませんでした。たぶん5年生の頃だったと思いますが、小学校が違う隣町(農家は少ない)にソロバン塾があり、そこへ通うようになったら、隣の席に肥満児が座りました。間近で肥満児を見るのは初めてでしたので、そのぽちゃぽちゃした体をまじまじと見て思ったのは、“こいつは病気か?”です。でも、明るく元気に動き回りますから、“よくもこんな肥満体であんなに機敏に動けるとは何とも不思議なものだ”と感心したところです。
 これは、半世紀前のことですから、肥満児であっても、けっこう活発に動けたのでしょうね。今の肥満児、甥っ子がそうでしたが、のそのそ動いているだけで、肥満児であっても半世紀も経つと、その動きが変わるように思われます。
 小生の数少ない経験からでは断言することはできませんが、半世紀前は肥満児であっても、かなりの健康体であったと思われてなりません。これは、よく動いたこともありましょうが、何よりも食生活が今よりずっと良かったからではないでしょうか。

 その1世紀前の明治初めとなると、日本人の健康度は格段に良かったと思われます。これは史実にあるのですが、開国によって日本を訪れた外国人が皆、日本人の元気さ、健康さに驚いています。そうしたことから、ある外国人は、東京から日光へ行くのに、馬に乗っていった方が速いか、人力車が速いかを競争をさせたら、何と人力車の方が勝ってしまったというから驚きです。
 さらにそれより3世紀前の戦国時代。戦の場面がテレビドラマでよく映し出されます。これは絵巻物などに基づき忠実に再現されていると思われるのですが、馬にまたがった武将の周りを足軽が並走していきます。実戦ではけっこうな距離を走ることになると思われるのですが、彼らは、いざ敵軍と会い交えても息が上がることは決してなかったことでしょう。史実としては、1583年の賤ヶ岳の戦いにおける羽柴秀吉の「美濃返し」が有名ですが、このとき、秀吉軍は、大垣から木之本までの丘陵地帯を含む52キロメートルを5時間で移動しています。足軽たちは、鎧を纏い、刀や槍を持って、上ったり下ったりしながら時速10キロで5時間も小走りしたのですから、その体力には驚愕させられます。

 半世紀前、明治の初め、戦国時代と、時代をさかのぼっていくにつれて、日本人の丈夫さが目立ってきます。日頃の体を動かす度合いについては、どれほどの差もないことでしょうが、はっきり大きく違うのは食生活です。
 半世紀前、小生のうちでは、田舎はどこもそうですが、麦飯で、おかずは芋かカボチャに野菜のおひたしといったところで、味噌汁が毎食付き、漬物が必ずある、というのが定番でした。動物性食品となると、時々イワシの目刺しが付き、秋にはサンマの塩焼き、冬にはまれにすき焼きで牛肉が少しだけ入るといったところでした。もっとも、どこのうちも鶏を飼っており、卵はまずまず口に入りましたし、老鶏は親父が潰してくれて家族皆で鶏肉やモツを食べることができました。蛇足ながら、鶏を潰す役割を担った方は、殺生の罪悪感から、鶏肉が食べられない方がけっこういらっしゃいます。
 明治の初め、江戸の人力車夫も似たり寄ったりの食生活であったことでしょう。違うのは、麦飯ではなく白米食であって体に悪かったでしょうが、卵や鶏肉、牛肉は口にすることがうんと少なかったでしょうから、差し引きプラスと考えてよいでしょう。
 そして、戦国時代となると、まさに玄米菜食であり、1日2食です。
 江戸時代の町人のようにイワシの目刺しやサンマの塩焼きが時々食べられたわけではなく、これらはごちそうとしてまれに口に入っただけと思われます。そして、白米は酒造に使われただけで、ご飯は玄米に雑穀を混ぜたものが定番となっていました。

 いかがでしょうか。雑穀米に、芋と野菜のおかず、味噌汁が付き、漬物がある、という食事、これが江戸・元禄時代以前の定番でして、今日、国際的に最も高く評価されているのです。さらにそれ以前となると、味噌は比較的新しい食品ですから味噌汁なしとなりますし、塩の流通が悪かった昔は漬物もなしであったことでしょう。そして縄文時代までさかのぼると雑穀米の代わりに木の実を食べていました。
 そして、世界で最も植生が豊かで人口密度も最も高かったであろう日本列島ですから、陸生動物は辺地へ追いやられ、これを口にすることはまれであったと思われます。もっとも、魚介類は豊富に存在しましたが、その昔に魚網があるわけはなく、その摂取量はたいしたことはなかったことでしょう。
 
こうした動物性食品が少ない食生活をずっと続けてきたのが、日本人でして、その消化器官も、その食性に適したものになっています。そして、これは、ヒト本来の食性です。
 華奢な胃袋と長い腸を持ち備え、たんぱく質や脂肪の消化酵素はあまり出ず、でんぷん消化酵素がよく出せる体質をもっていたのが日本人なのです。
 その体質は半世紀やそこらで大きく変えられるものではありません。肉食傾向が強いヨーロッパ大陸の民族とて、数万年かけて、やっと今日の体質が身に付いただけですし、それでも、未だにたんぱく質と脂肪の摂取過剰による生活習慣病を抱え続けています。

 明治初めに開国によって日本を訪れた外国人が、日本人の元気さ、健康さに驚き、人力車夫の丈夫さにびっくりしたことを先に書きましたが、これには続きの話があります。
 その外国人は、人力車夫は普段は肉を食べていないから、彼に肉を食わせればもっと速く走るだろうと考え、車夫に肉を食わせたところ、車夫は“肉を食うと力が出ないから肉は止めにして欲しい”と訴えた、とあります。
 このように、体力を使う職業にあっても、今日言われるような“スポーツ選手はたんぱく質の補給が欠かせない”ということは決してないのです。これについては、いい実例があります。肉と油脂を制限した食事によって、46歳まで剛速球を投げることができた大リーガー、ノーラン・ライアンです。(その詳細は、46歳大リーガー、ノーラン・ライアンに学ぶをご覧ください。)

 ここまでくれば、日本人にとっての、それは国際的にも言えることなのですが、ベストな食生活というものはどんなものか、よくお分かりでしょう。
 玄米菜食とし、発酵食品(味噌、漬物)を毎日摂ることです。
 ここで、発酵食品について、簡単に触れておきましょう。戦国時代に兵糧(陣中食)として盛んに使われたのが、当時まだまだ貴重品であった味噌です。そして、鎌倉武士以降、出陣に当たっては梅干を食べるようになっています。
 生活の知恵として、味噌や漬物が体に良いことを知っていたのでしょうが、ヒトの体に発酵食品が合っているのは、次のように考えるとよいです。
 ヒトに近縁のゴリラは、草しか食べないと言ってよいほどの草食動物で、大腸で未消化の草をどれだけか発酵させて、口からは大して入らないアミノ酸や有機酸などの栄養を得ています。これを後腸発酵と言いますが、ゴリラの後腸発酵は不十分なものですから、彼らは糞食をすることが度々あり、未消化物を再度発酵させて栄養を得ています。
 ヒトはゴリラほどには後腸発酵が出来ませんが、菜食に徹すれば、ゴリラにどれだけか近い後腸発酵ができ、アミノ酸の大きな補給源となっていることが分かっています。また、でんぷん質が多くなる玄米菜食であっても、その便は酸っぱい臭いがし、後腸発酵がどれだけか進んでいることが分かります。
 よって、発酵生成物はヒトの体も求めている、ヒトの体にぴったりの栄養なのです。
 なお、後腸発酵は腸内善玉菌によって行われ、肉を食べると未消化のたんぱく質が悪玉菌によって腐敗し、腐敗による生成物で善玉菌の増殖が止められ、後腸発酵がほとんど出来なくなります。便が単に臭いだけで酸っぱさが感じられない場合がそうです。
 (後腸発酵や腸内環境改善については、食物繊維の一種であるオリゴ糖を中心にして記事にしていますから、左サイドバーのカテゴリー「オリゴ糖の働き」をクリックしてご覧ください。) 
 ヒトの後腸発酵の重要性について付言しておきましょう。
 後腸発酵により、大腸内は酸性に傾きます。すると、小腸で不溶性となっていたミネラルがイオン化されて大腸でミネラルの吸収が促進されるのです。ミネラル不足の日本人ですから、こうした面でも後腸発酵が重要性を高めています。(大腸でのミネラル吸収については、各種ミネラルの吸収(Ca:No.5)をご覧ください。)

 今日の食生活に慣れ親しんだ体では、いきなり玄米菜食に戻すことは不可能でしょうし、いきなり切り替えると健康を害する恐れもあります。
 健康が気になる方は、少しずつ玄米菜食を取り入れていくのが良いでしょうね。
 最後に、
玄米食について非常に重要な注意点を上げておきます。
 玄米は生きていて毒になります。その毒を殺さねばなりません。これは簡単なことで、玄米を十分に水に漬けておき、玄米が発芽しようとする状態になれば毒は消えます。
 間違っても、水洗いして直ぐに圧力釜で炊くようなことはしないでください。
(玄米の毒性とその除去方法の詳細については、玄米VS白米論争をご覧ください。)

 さあ、あなたも食の原点に立ち返り、“朝食抜きの玄米菜食”へ向かって、その一歩を歩み始めませんか。
 お先真っ暗なこの世にあって、その閉塞感を打ち破るには、自らの力で自分を変えていくしかありません。そのためには、自分の体の健康の見直しを行い、元気で丈夫な体づくりをすることが基本となりましょう。

(2015.3.19補記)
・46歳まで大活躍した大リーガー、ノーラン・ライアンに関連する食生活について
 動物性タンパク質をたくさん摂ると成長スピードが速くなりますが、ここに危険な落とし穴があります。それは、「成長」はある年齢を超えた時点で「老化」と呼ばれる現象に変わるということです。つまり、成長を早める動物性タンパク質の摂取は、別の言い方をすれば、老化を早める食事ということになるのです。肉を好んで食べている人は、健康を害し、老化を進めているということをしっかり覚えておいてください。
 


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