大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

登記における「実質的審査」「申請主義」

2018-10-09 19:48:08 | 日記
いきなり大変次元の低い、恥ずかしながらのことを書きますが、先日建物表題登記の申請に対して補正の連絡がありました。「○○番○の家屋番号での申請だが、○○番○には既登記の建物があるので家屋番号を『○○番○の2』に補正するように」という連絡です。
調べてみると、たしかに敷地の前々所有者名義の、既に十数年前に取り壊された建物の登記が残っていました。既登記建物の調査などというのは、建物表題登記におけるイロハのイとしてやるべきことなのに、そこに疎漏があったようです。本当にお恥ずかしい。
これは、私のミスですので補正を指示されるのは当然のことですし、具体的にその方法まで示されたのは「親切心」からのものだと思いますので、そのこと自体についてとやかく言うつもりはないのですが、それにしても「表示に関する登記における登記官の審査」ということのは、「形式的審査」なのだと思わされ、そこからあれこれ考えさせられましたので、それについて書きます。


このような誤った申請があった場合、それをどう考えるのか?ということが問題になり、考え方は二つある、ということになります。
ひとつは、帳簿(登記記録)上の整合性を保つことを重視するものです。帳簿上「○○番○」という家屋番号が存在する以上、それと重複するわけにはいかないから、帳簿上の相応の措置をとる、というものです。登記官からの連絡のあった「家屋番号を『○○番○の2』に補正するように」というものです。「形式的」な考え方と言えましょう。(家屋番号というものは、申請に基づいてつけるものではないので、勝手に「○○番○の2」と付番されても文句の言えるものではない、とも言えるのですが・・。)
もうひとつは、建物の実況を正しく表示するようにすべきだ、という考え方です。具体的には、既登記の建物が存在する場所と同じ場所に新築の建物がある、という申請があったのであれば、それはおかしなことなので、実況がどのようになっているのか、ということを明らかにして、それに合致するように登記するようにしよう、ということで、既登記の建物の存否を確認して、存在しないのなら滅失の登記をして、そのうえで新築建物の表題登記をする、ということになります。(「実質的」です。)
さて、この二つの考え方のどちらが正しいのか?ということなのですが、公式的にもそうですし、多くの調査士の考えとしてもそうだと思われるのが、後者の考え方だと思います。「不動産の現況を正しく表示する」という考え方です。そしてそのようにするための登記官の審査のあり方を「実質的審査」といいます。不動産の表示に関する登記における審査はこの「実質的審査」の考え方に基づいてなされる(べき)ものだとされています。
これが公式的な考え方ではあるのですが、実態はこれと異なっているように思われます。初めに述べた私の恥ずかしながらの例でいえば、「帳簿上の体裁を整える」ということが重視されるわけです。
ここで問題なのは、「このような考え方は間違っている!」と言って済ますことができるのか、ということです。たしかに「実質的審査主義」の原則からすれば、それは誤りだと言うべきでしょう。しかし、そう言うことが全体的に見て、果たして妥当なのか?ということが問われるべきです。
それは、「登記官による審査」というものが、どのようなものとしてあるのか、ということにかかる問題です。ここでまず確認しておくべきことは、「登記官による審査」というのは、基本的に「形式的審査」の考え方と方法によっている、ということです。
このことは、「権利に関する登記」についての審査については公言されていることです。でも、表示に関する登記に関してはそんなことないんじゃない?やっぱり「実質的審査主義」をとっているんじゃない?と思われるかもしれませんし、たしかに公式的にはそのように言われています。
しかし、この「実質的審査主義」というのは、それ自身に価値のあるものではありません。あくまでも、「正しい(実況に合致した)登記を行う」ということが目的なのであり、そのために「実質的審査」を行う必要がある、というところから出てくるものです。
そして、その趣旨を貫こうとするなら、それは当事者からの申請を待つ(申請主義)のではなく、「職権主義」をとるべきだ、ということになります。具体的に言えば、私の例では、既登記の建物について当事者(敷地の前々所有者である登記名義人)からの申請がなければ(あるいは敷地所有者等からの申し出がなければ)登記をできない、というのが「申請主義」になるわけですが、それを待たずに、職権で既登記建物が存在するのかどうかを調べて、存在しなくなっていることが明らかになるのであれば滅失の登記を自ら行う、ということがなされて然るべき、という考え方です。
こう言うと、「そんなこと言っても無理だろう」という意見が必ず出てくるでしょう。これについては、(本当に無理かな?という考えもあるのですがそれはさておき)とりあえずは「確かに無理だろうな」と言っておきましょう。登記所における態勢は、そのような調査を行いうるようなものにはおよそなっていないのだからです。基本的は「申請を待って事件を起こす」という態勢しかありません。登記における審査っていうのはそういうものなのであり、それでいいのだ、それで仕方ないのだ、とされているのです。
この点についての基本的な考え方は、登記の事務を所管する法務省における基本的な考え方になっていると言えます。たとえば、有馬敦彦著「不動産表示登記」では、次のように言われています。
「登記官が登記申請(嘱託)を待たずに、あらゆる不動産について、積極的にその現況を把握して職権で登記するということは、現実には不可能であり、その不可能をもともと法は要求しているものとは解されない。」「表示に関する登記についても、『当事者の申請』が原則であり、いわゆる職権主義は第二義的なものと考えるべきであろう。」(P31-32)
「申請主義が原則、職権主義は第二義的」というわけです。
しかし、「法は要求していない」ということは本当にいえることなのか?と言うと、いささか疑問があります。その「法」が、どのようにして、どのようなものとして作られた(立法された)のか、ということを見ると、それは明らかになります。
「表示に関する登記」というのは、1960年のいわゆる「登記一元化」によって新たに生まれた領域(概念)です。そこで、この「一元化」を立法した国会では、どのようなものとして考えられていたのか、ということを見る必要があります。(以前にも一度書いたことがあるような気もしますが、繰り返します。)
「登記一元化」が審議された国会における政府(法務省)の説明は、次のようになっています(平賀健太民事局長(余談ですが、後に「長沼ナイキ訴訟」で札幌地裁所長として「政治的介入」の「平賀書簡」を出して問題になった人です)答弁)。
「この登記簿の表題部の法的効力いかん、登記簿の表題部は何だといえば権利の客体である不動産を表示するものであるということにおいては、現行法の登記簿の表題部と改正法の表題部も同じことでございます。ただ、現行法の表題部というものは職権主義がとられておりませんし、所有者の申請を待って登記をするという建前でありますために、常時不動産の現況というものをそこに反映してない。それを反映しておるのはむしろ台帳であります。ですから、まあ法的性格いかんといえば、権利の客体はそこに表示されておるということでございますけれども、実質的にいいますと、台帳が表題部にとってかわったという意味で、台帳と同じなんだ、改正法のもとにおける登記簿の表題部というのは、実質的には台帳がそのままここへきたのだと言っていいと思うのでございます。ですから職権主義がとられておる点、所有者に申請義務が課せられておる点、申請を懈怠しますと罰則が適用せられる点、常時不動産の現況というものがそこに反映される仕組みになっておる点等、そういうものをとらえますと、これはまさしく台帳と同じだと言っていいわけであります。」(第034回国会参議院法務委員会 S35.3.10)
「登記」に「一元化」した後の「表示に関する登記」においては、「台帳と同じ」で、「職権主義がとられる」ものとされていたわけです。
この「職権主義」については、さらに次のようにも言われていました。
○高田なほ子君 なぜこれは職権主義でなければならないのですか。
○政府委員(平賀健太君) これは土地建物の現況を把握して、権利の客体を明確にする、その他国の政策上、土地建物を特定して、これを明確に把握しておくという必要上、この台帳制度というものがあるわけでございますが、ただ本人の申告あるいは申請に待っておりましただけでは正確を期することができません関係で、この職権調査ということが建前になっておるのでございまして、これは台帳におけると同じように、台帳の機能を果たしますところの新しい案のもとにおける登記簿の表題部においてもこの職権主義の建前をとった次第でございます。(第034回国会参議院法務委員会 S35.3.10)
これほど明確に、台帳は職権主義をとっていて、だからこそ「常時不動産の現況を反映」するものになっていた、ということが言われ、その上で一元化以降の表題部については、「職権主義」をとるものであり、「台帳と同じなんだ」ということを言っていますし、そのようなもの説明があったればこそ「登記一元化」は国会を通過して、制度として実現したわけです。
「法は要求していない」のではなく、「法は要求していた」わけです。それなのに、法を執行すべき行政が「予定しなかった」ということです。

・・・・そういうものとして、その後「職権主義」は忘れ去られてしまいます。
これって、たとえば子供が「僕が散歩もするし、餌もあげてちゃんと世話をするから犬を飼って」と言って犬を飼い始めたはいいけれど、すぐに散歩も餌もしなくなっちゃった、みたいな話です。
こういうことって、家庭内ではお母さんにいっぱい叱られるにしてもまぁ許されるわけですが、世間では、普通通用することではありません。それを通用させてきてしまった、というところに、「登記の世界」の「ミクロコスモス」として社会から隔絶した閉鎖性のすごさがある、ということなのでしょうか。
そして、この「やるやる詐欺」のようにして導入された制度は、既に半世紀を超える歴史を持つに至っています。そこで、この制度はとても揺るぎない確固たるものになったかのように思われてきたのでした。
しかし、嘘はそう長続きするものではない、ということになってきています。「実質的審査」ということは(それによる真実性の担保ということは)「職権主義」的な契機を抜きには保ちえないことが、社会全体の問題としても明らかになってきてます。
「所有者不明土地」問題として明らかになってきていることは、「相続登記未了」等の「権利に関する登記」部門だけで問題になっているものなのではなく、「表示に関する登記」部門においてこそ、より顕著にあらわになっているものとして見る必要があるのです。
すでに「実情に即さない登記」が数多く存在するようになり、実務的にはその実情を認めながら処理をしていくしかないようになっています。
このようなことを続けていると、「登記」に対する社会的な信用はやがて失われていくようになってしまいます。早い時点で何らかの対策をとる必要がある、ということなのだと思います。

以上、自分のつまらないミスを棚に上げての話のようで、恐縮ですが・・・。
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