大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

カルロス・ゴーン逃亡について

2020-01-30 20:12:03 | 日記
今となっては旧聞に属する話題になってしまいましたが、昨年末にカルロス・ゴーン被告がレバノンに出国=逃走した、ということについて書きます。。
このことについて、さまざまなことが言われていますが、私の意見。
カルロス・ゴーンはとっても嫌い。まさに「強欲資本主義の申し子」と言うべき人でとっても嫌いです。
ゴーンに対する立件について。もちろん、事情を知らないので何とも言い難いのですが、報道によって判断する限りでは、この立件はきわめて妥当なもののように思えます。西川前社長等の経営陣(法人としての日産)の罪深さをどこまで見ているのか、は別として。
ですから、ゴーンさん(ちなみに、これは「ゴーン被告」とか、海外逃亡自体が犯罪嫌疑を受ける中では「ゴーン容疑者」とか呼ばれるべきものとなっているのだと思いますが、NHKは「ゴーン前会長」という呼び方をしています。これって何なのでしょうね?・・・ということはともかくとして、そのゴーンさん)のことは嫌いだし、立件も妥当だと思ってはいるのですが、それでもこの年末の「逃亡劇」については、それほど非難すべきものとは思っていません。むしろ、それはそれでいいんじゃないの、とさえ思っています。

・・・と言うのは、やはり「日本の刑事司法」のあり方がいけないと思うからです。
この、「ゴーン逃亡劇」を受けて、法務省は「我が国の刑事司法について,国内外からの様々なご指摘やご疑問にお答えします。」という記事をホームページに載せています。日本の刑事司法制度に対する批判にこたえる、というものとして載せたものらしいのですが、これがひどい。。
ゴーン被告や(主に)海外のメディアが、「日本の刑事司法」に対して反人権的・前近代的だと批判していることに対して「答える」というものとして言っているつもりなのでしょうが、およそ「身内の論理」にもとづくものでしかなく、およそ説得的なものではありません。
たとえば、
「日本では,なぜ被疑者の取調べに弁護人の立会いが認められないのですか。」

という設問がなされているのですが、それへの回答はつぎのものです。
「被疑者の取調べに弁護人が立ち会うことを認めるかについては,刑事法の専門家や法律実務家,有識者などで構成される法制審議会において,約3年間にわたってこれらの問題が議論されました。そこでの議論では,弁護人が立ち会うことを認めた場合,被疑者から十分な供述が得られなくなることで,事案の真相が解明されなくなるなど,取調べの機能を大幅に減退させるおそれが大きく,そのような事態は被害者や事案の真相解明を望む国民の理解を得られないなどの意見が示されたため,弁護人の立会いを導入しないこととされた経緯があります。こうした議論を経て,取調べの適正さを確保する方法の一つとして,取調べの録音・録画制度が導入されました。」
なるほど、「日本の法制審議会ではそのように考えられたのだな」ということはわかります。しかし、「被疑者から十分な供述が得られ」るようにすること、と、「被疑者の人権を保障するためには弁護士の取り調べへの立会が必要だ」と考えること、とのどちらを優先するべきななのか?ということはなんにも言われていません。
もちろん、「被疑者の人権を保障するためには弁護士の取り調べへの立会が必要だ」というような考えは、「極端な人権擁護論者」の言うことに過ぎず、「被疑者から十分な供述が得られ」るようにすることという法的利益に比べれば取るに足りないことだ、というのであれば、このような論法も通用するのでしょう。
しかし、「世界の現実」を見るとそういうことではないようです。日経新聞2019.1.12では、次のように言われています。
「法務省の資料によると、日米英独仏伊韓の7か国のうち、立会できないのは日本だけ。特にフランスは「弁護士立会か弁護士を呼び出したうえでなければ取り調べ不可という。」
つまり、「国民の理解を得られない」などという「法制審議会」での議論というのは、およそ「国際世論の理解」を得られない」ものだということになります。
このような事情があるからこそ、私も大嫌いなゴーンは(呼び捨てにします)、「法治主義からの逃亡だ」という非難を受けることをも承知の上で「逃亡」ということを選んだのでしょう。
私は、そのようなエゴイズムや、そのような手段を選びうるという特権的立場に対する大きな嫌悪感を抱くものではありますが、それにしても「日本の刑事司法に対する批判」には正しいところがあるのであり、日本政府・法務省も、そして彼らがよりどころにするところの「国民」も、硬直的な姿勢をとるべきではなく、反省して次代に活かすようにするべきなのだと思うのです。