大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

2019年の初めに

2019-01-14 19:25:47 | 日記
1月も半分が過ぎ、だいぶ遅ればせながら・・・新しい年・2019年になりました。あけましておめでとうございます。

さて、新しい年が明けたのですが、「土地家屋調査士の業務と制度」を主な対象としているこのブログの更新がかくも遅くなってしまったのは、あまり新しいテーマがない、ということによります。「動き」があまりにも少ないので、論ずることもあまりなくなってきてしまっている、という気がしています。まぁ。私の「やる気」が減退して「諦めモード」に入っていることにも原因があるのかもしれませんが・・・。

ということで、まずは個人的な話。
「老眼鏡」をつくりました。これまでは、元々近眼なので、本を読むときには眼鏡をはずしていて、それで十分に用が済んでいたのですが、最近眼鏡をはずしても本を読みにくくなり、夜になるとほとんど無理、という状態になったので、やむなく「老眼鏡」に至ったわけです。
出来上がった老眼鏡をかけてみると実に調子がよろしい。これまで、本を読むときに如何に無理をしていたのか、ということがわかります。眉間を潜めることなく楽に、はっきりとすらすらと読むことができる、というのは実に気持ちのいいものです。
しかしその反面、「本を読むこと」に特化したものなので、ちょっと離れたところを見ると全然見えません。ボヤーっとした感じがするとともに、それだけでなくフラッと体が崩れるような感じもして気持ち悪くなってしまいます。
昔(今でも使われているのかどうかわかりませんが)慣用句的によく使われていた言葉に「近視眼的」という言い方(「大局的に見通せず、目先のことだけにとらわれているさま」)がありましたが、老眼鏡をかけるとまさに遠くのものを見ることができず、近くのものしか見られない状態で「近視眼的」になってしまいます。
このような身体的な事柄から、遠くも近くも自在に見るということの難しさを痛感させられます。近くを見ようとすれば遠くは見えない、遠くを見ようとすれば近くが見えない、というわけです。一度近視になった者にとってはなおさらです。

話は変わって・・・、正月のテレビ番組のなかで、わが大分県の南画家田能村竹田に似せて描かれた贋作の掛け軸を評して「平面的で遠近感が全くない」と言われているのを聞いて、なるほど「土地家屋調査士のグランドデザイン」という「画」を見て感じたのは、この贋作と同じものだったのか、と思いました。
「遠近」ということで言うと、状況をとらえる場合、少なくとも「大」「中」「小」の三つくらいの段階においてとらえることが必要になります。そして「大状況」をとらえるときにも、「政治」「経済」「技術(テクノロジー)」そしてそれらを含みつつそれらとは区別される「社会」といった位相においてとらえるべき、ということになります。
その上で、それが自分たちを含む「中状況」においてどのように作用するのか、ということを考える必要があります。
その上で、ようやく自分たちにとってどうなのか、ということを考える、ということになるわけです。
この対象における「大中小」が、主体的なとらえ方としての「遠近」に結び付くべきのです。
そして、その「遠近法」がとられていない「画」は、平板でつまらないものだと思われてしまうわけです。
・・・ということで、もう少し言いたいこと(素材)もあるのですが、「遠近法」を考慮して今日はこの辺で終わりにします。

最近読んだ本のなかにあった言葉で感銘したもの。・・・・「べつに自分の言ひ分が採用されるとおもつて發言してゐるのではない」。今年もよろしくお願いします。