大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

連載(?)12 「原始筆界論」

2017-09-16 15:03:27 | 日記
久しぶりです。
膝の痛み(加齢による膝関節症)によってやめていたマラソンを再開して9か月ほどが経ち久しぶりのハーフマラソン大会に出たところ今度は反対の膝を壊滅的に痛めてしまったり、ここ数年悩まされてきた尾籠な疾患の治療のため若干入院をしたりしているうちに、ずいぶん月日が過ぎてしまいました。「連載」と言うには間が空きすぎてしまいましたが、「続き」を(あまり連続性はないかもしれませんが)書くようにします。

七戸先生の「土地家屋調査士講義ノート」の中に「原始筆界論」という言葉が出てきます。どうも、この「原始筆界論」というとらえ方について気になったので、少し考えてみます。

「原始筆界論」という用語は、次の文章の中で出てきます。
「当事者にとって重要なのは、自己の有する私的所有権の範囲であるから、当事者としては、もっぱら所有権にもとづく訴訟を利用し、その確定判決を用いて、公簿上の境界の訂正を行えば済む話である。にもかかわらず、なぜ、筆界確定訴訟なる訴訟形態が認められているのか。この点に関して、通説は、筆界が、所有権界に関する有力な証拠方法になると説く。そして、この点との関係で主張されるのが『原始筆界』論である。すなわち、当初の所有権界と筆界は一致しており、それが一筆の土地の一部の譲渡や時効取得によって、少しずつずれてゆく。したがって、当初の筆界さえ見つかれば、その後の所有権界の移動を追跡してゆくことで、現在の所有権界も判明する。しかし、現在の所有権界が原始筆界と異なる旨を主張する者は、その後の所有権界の有効な移動の存在につき証明責任を負うから、当事者としては、境界確定訴訟により原始筆界を確定しておけば、後に生ずるかもしれない所有権界に関する紛争において有利な地位に立つ、というのである。」(「土地家屋調査士講義ノート」309)
このように「通説」の見解を要約したうえで、七戸先生は、「わかったようでわからないような説明であるが」と言って、その(「わからない」)理由を「境界確定訴訟の存在意義は、歴史的にいえば、上記とは全然違うものである」からだ、とします。
ここでは議論が錯綜しています。「境界確定訴訟の存在意義」を「歴史的」に考えると、たしかに七戸先生の言われる通りなのかもしれませんが、「原始筆界論」と、その「境界確定訴訟の存在意義」論とは、問題の次元が違うように思います。
七戸先生がこれを一つの、つながる話として論じられるのは、次のような組み立てでの「原始筆界論」がある、という理解にもとづいているからなのかと思います。
すなわち、≪「筆界(原始筆界)」というものがあり、それは所有権界と異なるものとしてある。だから「筆界」を明らかにすることに独自の(「境界確定訴訟の存在意義」)がある≫というようなものとして「原始筆界論」がある、と考えて、そこから「所有権界と筆界とを同一物と見る素人の感覚の方が実は真実で、両者を峻別する方が間違っているのである」と「原始筆界論」を批判するわけです。

しかしながら「境界確定訴訟の意義」を説く「通説」というのは、そのようなものとしてあるわけではないように思います。たとえば、それは、つぎのようなものとしてあります。
「そのような場合に、所有権確認の訴を起こしたとすれば、裁判所は当事者の主張する所有権の範囲が当事者の主張のとおりであるとの確信をもつことは、非常に困難なのではあるまいか。普通の事件と同じ程度の証明を要求するとすれば、おそらくは、現在境界確定の訴によってきめられている線よりも相当原告に不利な線で決められることが多いのではあるまいか。」「もし、当事者が境界確定の訴を先に起こして、まず境界線を定めてもらった後に、所有権の確認の訴を起こしたとすれば、その訴を起こす利益があるかどうかは別にして、多くの場合は、直ちに所有権確認の訴を起こす場合よりも有利な判決を受けることになる。」(村松俊夫「境界確定の訴」14)
先ほど引用した七戸先生の批判は、このような言い方に向けられているのだと思えます。まさに「所有権界に関する紛争において有利な地位に立つ」ということが言われているからです。
しかし、理論的に考えても、現実を見ても、それは「後に生ずるかもしれない所有権界に関する紛争」を見据えて、というものではありません。それは、現に生じている紛争に対するものとしてあります。実際、多くの境界確定訴訟は所有権確認訴訟と同時に(併合して)行われているわけで、「後に生ずるかもしれない」ものに備える、などという悠長なものとしてあるわけではありません。
それは、「原始筆界があるから境界確定訴訟がある」という論理的にきれいなつながりにおいて設定されているわけではなく、「境界確定訴訟というものがあった方が便利がいいからあるようにする」というきわめてプラグマティックなものとしてあるわけです。
そこでは、「原始筆界」があるかどうか、ということが考えられていたわけではありません。少なくとも「歴史的にいえば」当初考えられていたわけではありません。むしろ逆に「境界確定訴訟」という訴訟類型をあるものとしたことから発して「筆界」をあるものとして、それを「論理的に」突き詰めていくと「原始筆界」というものがある、ということに至った、という構造にあるのだと思います。

ここでようやく、前回まで書いたこととつながります。
「筆界をあるものとした」ということは、かなりテクニカルな、まったくの「無」からでっち上げたものであるかのように思われてしまう言い方ですが、そういうことではありません。
区画整理・耕地整理や分筆によって「筆界の設定」が実際に行われ、「筆界」が実在している、ということが現実の基礎としてあって、「筆界がある」というのは出てきているものととらえることが出来るでしょう。
このような「筆界」が現実としてあり、なおかつそれをめぐって紛争が起きているのであれば、それを解決する方法として「境界確定訴訟」が考えられるのは当然のことだと言えますし、その境界確定訴訟において「筆界」を「発見」することによって紛争の解決を図る、ということが行われて何の不都合もなく望ましいものだ、ということになります。
その一方、現実に設定されていない「筆界」(いわゆる「原始筆界」)もあります。この場合、「境界確定訴訟」においては、「点と線」の形で存在するものとしての筆界を「発見」する、ということにはいささか無理があるのであり、「点と線」の形での筆界については、新たに「設定」(「創設」)をするべきものとして考えるべきです。
しかし、現実には、そのようにはならず、実在する筆界に関する解決方法が、実在しない「筆界」に関するものとしても拡張されてしまった、ということが起きたのだと思います。
それは、「論理的」なレベルでは、有名な次の判決文に表れています。
「土地境界確定の訴においては、裁判所は、当事者の申立に拘束されずに、裁判所が相当と認めるところに従って境界を確定すべきであるとされているが、これはもちろん、境界の確定が、裁判所の自由裁量に委されていることを意味するものではない。すなわち、裁判所は、まずできるだけ客観的に存在している境界線を発見するよう努力しなければならない・・・」(東京高裁 昭和39.11.26)
というものです。
たしかに、まったく「裁判所の自由裁量に委されている」わけではないのですが、それは「発見」と「自由裁量」という両極端のどちらかを二者択一的に選ばなければならない、という性格のものではありません。様々な資料によって一定の範囲(幅)にまでは絞られるものであり、その意味で「自由裁量に委されている」わけではないわけですが、だからといって「点と線」の形での「筆界」が「発見」されるものとしているのかと言うとそうとも言えないわけで、「点と線」の形で特定するためには、最後は「エイヤッ!」という部分がどうしても残ることにならざるをえないのが現実だと言えるでしょう。この場合は、「発見」なのか?「創設」なのか?ということが問題になります。(そんなこと問題にしなくてもいい、どうでもいいことじゃないか、と思われるかもしれませんが・・・。)
裁判における考え方について、データ的にみてみると(いささか古いデータですが)、官民境界に関する境界確定訴訟82件の判決結果について、「境界発見」と「境界創設」とに分類すると「境界発見」が78件、「境界創設」が4件であり、圧倒的に多くの裁判で「筆界が発見できた」とされている、ということです(「官民境界確定訴訟における実務上の諸問題」(法務総合研究所平成3年3月)。ここから窺われるのは、裁判における考え方は、「自由裁量か?発見か?」というような二分法になってしまい、「自由裁量ではないので発見」というような考え方になってしまっていることです。
くり返しになりますが、この考え方はおかしなものです。
先に引用した東京高裁判決にしても、先の引用文の続きの部分では次のように言っています。
「その不明な場合に、いかにして境界線を定むべきかについては、法律は具体的には何も規定しているところではないが、古くから、裁判所の取扱いと外国の立法例などによれば、係争地域の占有の状況、隣接両地の公簿面積と実測面積との関係を主にし、このほか公図その他の地図、境界木または境界石、場合によっては林相、地形等を証拠によって確定し、それらの各事実を総合して判断するを要するとされているし、このことは条理に合したものと解せられる。」
この「不明な場合」、つまり「発見」できない場合においてもまったくの「自由裁量」に任されているわけではなく、「証拠によって確定し、それらの各事実を総合して判断する」ことになっているわけですから、このような場合における判断をどちらに分類するべきか、ということになると「発見」ではなく「創設」だとするべきです。
そして、裁判において実際に審理して判断しているものの圧倒的に多くは、このような「証拠によって確定し、それらの各事実を総合して判断する」ものだと思われるのですが、その裁判について判決書などから「発見」と「創設」のどちらかに分類する段になると(おそらくは対外的に取り繕うということだけでなく主観的にも)「発見」なのだ、としてしまっているようです。
おそらく裁判官においても「境界を自分で創設する」ということには抵抗感があるのでしょう。「創設する」よりも「発見した」という理由付けによって自他ともに納得する、というところがあるのではないか、と思えます。

このように、「境界確定訴訟」という訴訟類型は、そもそも「あった方が便利」なものとしてその「存在意義」を認められるものとして存在し、そこにおける実際の判断も「正しい筆界を発見する」ものだとした方が判断しやすい、というように、極めて実際的な必要性や便宜性から存在しているものなのだと思えます。
それはそれで現実に即したものとして悪いことではなくよろしいとは思うのですが、ここに一つの副作用が出てきます。それは、全社会的には小さなことでしょうが、私たちの業界には大きな悪影響を及ぼしたものであるように思えます。
それは、「筆界を発見する」ということは、「発見」されるものとしての「筆界」が実在する、ということが前提になる、ということです。それは、本来的には実在しないものとしてのいわゆる「原始筆界」についても妥当するものだとされます。「原始筆界」というものが厳として存在するのだ、と考えられるようになるわけです。
それは、やがて「筆界と所有権界との峻別」などという考え方に行きついてしまいます。七戸先生の言うところの「原始筆界論」です。
「原始筆界論」があるから「境界確定訴訟」がある、のではなく、逆に「境界確定訴訟」があるから「原始筆界論」がでてきてしまう、という構造なのだろうと思います。私たちには、多くの間違いや混乱を含んだこの構造を読み解いて克服する必要がはあるわけですので、もう一度この構造について考え直す必要がある、と言えるでしょう。