大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本・・・「『反原発』の不都合な真実」(藤沢数希著。新潮新書)

2012-05-02 06:49:28 | インポート

一昨日、福岡からの帰路の電車の中で読んだ本です。

結論から言えば、「トンデモ本」の一種と言うべきでしょう。「原発」というものは、ここまで粗雑な理屈によってしか「擁護」「推進」しえないものなのか、ということに驚きました。

この本の中で、一つだけ共感した部分がありました。

「実は、原発の問題点は、経済性でも安全性でもありません。原発の問題点は倫理性なのです。」

というところです。もちろん、「安全性」「経済性」をも含んだものとして「倫理性」は考えられなければならないので、前段での否定が必要とは思えないのですが、とにかく「倫理性」の問題として考えなければならない、というのはそのとおりのことでしょう。

では、この「倫理性」はどのように考えられているのか、と言うと、今の文章に続いて次のように言われています。

「大都市に住む人々は、原発立地県の人々に感謝の気持ちを忘れてはいけません。」

・・・これが、著者の考える「倫理性」の問題のようです。そして、だから、「核燃料税などにより、そのリスクを引き受けた地元住民に経済的な見返りがあるのは当然なのです。」・・・と、「倫理性」の問題は、「経済的見返り」の問題になってしまいます。そして、「これは、Win Win の関係で、他の経済活動と何ら変わりのないふつうのことです」とされてしまいます。この程度の「倫理性」が、本書の底に通じているものだ、ということです。

具体的な問題としては、3つだけとりあげます。

1つめは、放射線による健康被害の問題です。著者は、「低線量の放射線による健康被害は心配いらない」、ということを言います。私自身も、「そんなに心配しなければいけないものなの?」という疑問は持ちますが、この問題の最も大きな問題点は、「よくわからない」というところにあるのだと思います。著者は、広島・長崎の原爆による放射線被害によって、影響・被害の程度は解明されつくしているように言いますが、そうではないでしょう。だから、低線量でも健康被害があるものとして考える国際基準ができていて、それにもとづいて住民の避難などもなされているわけです。放射線による被害、という未解明の問題に対して、「すべてわかった。問題ない」という傲慢な態度をとるのかどうか、というところで、「倫理性」は問われるのでしょう。

2つめは、「高レベル放射性廃棄物の処理は科学的には何の問題もない」と著者が言うところの問題です。まず、原発によって生み出される高レベル放射性廃棄物について、「これらの嵩は非常に小さいので、スペースの観点からいえば、保管場所にこまるようなことはありません」、と、問題を「スペースの問題」にまずしてしまいます。

そして次に、「高速増殖炉などで、現在の軽水炉による使用済み核燃料を再利用できるようになるかもしれません」、だから「それほど最終処分を急ぐ必要もない」と言うのです。「・・・かもしれない」という話で、現にある問題への解決策を考えなくてもいい、としてしまう、・・・これもやはり「倫理性」の問題でしょう。

そして、「海洋投棄」も「それほど悪いアプローチではないでしょう」とか、「ロシアや中国、モンゴルなどの、人間が住んでいない膨大な土地が余っている国と国際共同プロジェクトを組めば、ビジネスとしてWin Win の関係を築くことも可能でしょう」という、現実に破綻している「後進国」への押し付け策もありだとしています。・・・繰り返しますが、やはり「倫理性」の問題だと思います。

3つめは、「福島への反省」です。著者によれば、「今回の事故は単純な安全装置の設計ミスなのです」とのことです。「入念に準備しているリスクに対しては頑強なのです。むしろ手を抜いていた、予備電源の設置場所や、電源車の温泉となどの、単純な設計ミスで足をすくわれたのです」とのことです。では、このことからどう考えるのか?・・・・著者は、「だから平気」という結論に至るようです。「手を抜いた」所に関する「単純なミス」なのだから、そこを埋めれば平気、という考え方のようですが、そのような「想定できなかったところに危険が潜んでいる」ということへの恐れや、人間の(あるいは科学の)至らなさへに対する謙虚さに、何故結びつかないのかが不思議です。

・・・そのほかにも問題はいっぱいありますが、最後にもう一度繰り返すと、やはり問題は「倫理性」の問題なのだと思います。そのような観点から見るのであれば、一読の価値があるかもしれません・・・。