雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  平安の都へ ( 8 )

2017-06-10 08:32:14 | 歴史散策
          歴史散策
               平安の都へ ( 8 )

平安の都を求めて

桓武天皇は、なぜ長年の王城の地である大和を棄てて新しい都を求めたのであろうか。
これについては、古くから色々な理由が述べられてきている。その理由の多くは納得性があり、桓武天皇に少なからず影響を与えたものと考えられる。しかし、天皇といえども一人の人間だとすれば、様々な理由の集積の上に立って物事を決断したとされる場合、どの要因もがその原因というのは必ずしも正しくなく、最後に決断への背中を押したものがあると思うのである。
つまり、平城京を捨てることを決断するに至ったのには様々な要因が考えられるが、実際に行動を起こさせたものが何か一つあったような気がするのである。

それでは、桓武天皇が平城京を棄てるに至った原因らしものを挙げてみよう。
まず一つは、王朝の交代を広く喧伝するためということが考えられる。
天武あるいは持統王朝と考えれる王朝が断絶して新しい王朝が誕生したということを世間に認知させるためには、新都建設ということが最も効果的と考えることは納得性がある。天武系天皇が天智系天皇への移行は、桓武天皇の父・光仁天皇の時に起こっているが、光仁天皇が即位する時点においては、明らかに旧王朝との融合体と考えられていたはずである。
しかし、桓武天皇の即位は、旧王朝との決別であり、それを世間に認知させることが必要だったと考えられる。この世間とは、もちろん地方の有力豪族たちも入るとしても、最も認知させたかったのは、多くの皇族や王たちであり、平城京を守ってきた有力豪族や寺社勢力であったと考えられる。

もう一つは、早くから有力動機とされてきたものであるが、寺社勢力からの脱却である。
この時代の寺社勢力の本当の力を理解することは、現代人にとっては難解な部分が多いと思われるが、あらゆる部分で国家権力あるいは権力者に大きな影響力を持っていたようである。
真偽はともかく、桓武天皇自身が見聞きしたであろう現実として、法王にまで上り詰めた弓削道鏡の影響力の大きさがあったかもしれない。道鏡の事は特別な例としても、当時の貴人が病気になれば、医師にあたる人物が治療にあたったが、むしろ頼りになるのは祈祷であった。その祈祷も誰が行うものでも良いというわけでなく、身分が高くなれば高くなるほど、高名の禅師や祈祷師を求めたことは当然のことである。
そしてこれは、病気に限らず、精神的な悩み事や、一家の大事や時には国家の大事までも相談することもあったかもしれない。そういうこともあって有力寺社と宮廷や有力豪族との間には利害を共有したり相反したりすることが多くなっていった。それに何よりも、桓武天皇が表舞台に立ち始めた頃には、有力寺社の財政力や軍事力は、朝廷といえども無視できない力を持っており、国家運営上の障害になってきていた。
桓武天皇が、この勢力を朝廷から遠ざけようと考えたらしいことは、新設の都に平城京にある寺社の移転を認めていないことから推察できる。

また、桓武天皇が即位することについての抵抗も小さくなかったようだ。
桓武天皇は781年4月に病気となった光仁天皇から譲位されて即位した。相当強引な手段を経たとしても、皇太子の地位にある山部皇太子が即位するのは当然のことと思われるが、それでもなお反対する勢力は存在していた。
即位の翌年には、「氷上川継(ヒカミノカワツグ)の変」という事件が起きている。氷上川継という人物は、天武天皇の曽孫にあたり、母は聖武天皇の皇女・不破内親王という血統的には桓武天皇と何ら遜色なく、その従者が武器を持って宮中に侵入し、桓武を廃して川継を皇位に就けようとしたとされる大事件であった。
この事件の当事者である氷上川継は先帝光仁の崩御直後であることから罪を減じて伊豆への流罪となっているが、これに関連して多くの人物が地位を追われている。この事件も信憑性を疑いたくなる面を持っているが、天武系勢力がまだ健在であることを示すものであり、桓武勢力がせん滅を狙っていた可能性も考えられる。

さらに、桓武天皇を終生悩まされることになる早良親王(サワラシンノウ)の存在がある。
早良親王は桓武天皇の同母弟であるが、早くに出家していた。皇族とはいえ天智系であり、生母が帰化人の子孫であることなどから、桓武・早良の兄弟が皇族として生きていくことは困難と判断した白壁王(光仁天皇)は、桓武を官僚として生きることを模索し、早良を僧侶としての生涯を送らせようと考えていた。早良は、有力寺院である大安寺や東大寺で修業し、東大寺の次期別当という立場にまで上っていたようである。
病を得ていた光仁天皇は、桓武に譲位するとともに早良を還俗させて皇太子としたのである。正しくは皇太弟ということになるのであろうが、桓武にはすでに男の子がいることから不自然な形であるが、早良のバックにある東大寺の力を頼りにしたようで、適当な時期に、それもかなり早い時期に早良への譲位を考えていた可能性がある。それでなければ、決して良好な関係でなかった天智と天武の例を踏襲するかのような皇太弟という例外的な形は行わなかったと思うのである。
早良皇太子が壮絶な死を遂げるのは、桓武天皇が遷都を決意した後の事であるが、早良の存在が有力寺社、特に東大寺と距離を置きたいと考えた可能性を否定できない。

その早良皇太子をめぐる悲劇は、長岡京建設が実施された直後に発生している。
長岡京建設が始まった翌年、785年9月に建設の陣頭指揮にあたっていた中納言藤原種継(タネツグ)が矢で射殺されるという事件か起こった。藤原式家の種継は桓武天皇の信頼が厚く、遷都に反対する勢力の仕業であることは当然考えられる。
犯行の中心人物として大伴継人(ツグヒト)や佐伯高成らが捕えられ、その自白から春宮大夫(トウグウノダイブ・東宮職の長官)を務めていた中納言大伴家持が一族や佐伯氏などと結束して、早良皇太子の了解のもとに皇位を奪おうとしたものと結論付けられた。
家持は事件発覚の直前に亡くなっていたが、連座して死後除名(シゴジョミョウ・官僚としての名誉を剥奪する罪)を受け、春宮職にあった官僚も多く逮捕された。当然、早良皇太子にも累が及び、春宮宮殿から乙訓寺(オトクニジ)に移され幽閉されたが、自ら食を断って抵抗を示し、十余日後に淡路に移送される途中で憤死してしまった。それでもなお遺骸はそのまま淡路に送られて葬られた。
この為早良親王は怨霊となり、この後桓武天皇を悩まし続けるのである。

以上、桓武天皇が平城京を棄てた理由について、その原因らしいものを列記してみた。
この他にも、今日では知りえないような状況や心理的な圧迫があったのかもしれない。また、桓武天皇が即位して八か月後に父光仁が崩御しているが、山部親王(桓武天皇)を策謀を以て皇太子に押し上げた張本人ともいうべき藤原良継・藤原百川は桓武天皇が即位する以前に没している。つまり、熱烈な支援基盤を失ったともいえるし、自らの暗部を熟知している人物たちが消えて行ったといえるかもしれない。
おそらく、桓武天皇が遷都を決意した理由は、幾つかの要因が重なった結果だと思われるが、筆者個人としては、あまりにも汚れきった過去からの脱出だったのではないかという気がしている。重過ぎるしらがみに堪えかねて、「もう、こんな所でやっていられるか」と思ったというのは、さすがに乱暴すぎる言い方であろうか。

桓武天皇が平城京を棄てようとした本当の理由を見つけ出すことは難しいが、遷都先を長岡京とした理由は比較的分かりやすい。
水運の便や地形なども理由の一つに上がるかもしれないが、この地は秦氏の勢力圏であり、渡来系豪族の力が強い地位であったことが何よりの理由であることは間違いあるまい。
桓武天皇の生母の高野新笠は渡来系の出自であり、当然桓武天皇自身に対する渡来系豪族たちの期待は大きく、手厚い支援があることは想像に難くない。また、長岡京は本格的な王城を求めるための仮の都であったという説もあるが、現在推定されている規模からすれば、本格的な都建設に向かっていたと考えるべきだと思われる。

では、その希望の新宮城を着工から五年ほどで次の地を求めたのは何故であろうか。
一般的に言われていることは、長岡京着工後に次々と不吉な出来事が発生したことがその理由とされている。大きな水害が続いたこと。早良親王を死に追いやってまで就任させた安殿(アテ)皇太子が病床に着くようになったこと。蝦夷との戦いで大敗したことなどである。そして、それらの多くは、早良親王の怨霊のなせる業だと考えられたらしい。そればかりでなく、桓武天皇本人が、早良親王の怨霊に苦しめられたらしのである。
これは推定ではなく、792年には、安殿皇太子の病気が早良親王の祟りだとして遥々淡路まで使者を遣わして祀らせている。その後も再三僧侶などを遣わし、800年には崇道天皇の尊号を追贈し、その後もたびたび慰留にあたっている。そして、末期に当たって桓武天皇は大伴家持など早良親王事件に連座した人たちを復権させている。よほど心の重荷になっていたようで、やはりこの事件には冤罪の臭いがする。

皇位を獲得するまでの汚れた過去を平城京に棄ててきたはずが、我が子を皇太子に就けるための強引な策略が再び桓武天皇を悩ませていたのかもしれない。それも、早良親王の怨霊という強大な祟りまで加わってである。もしかすると、井上皇后や他戸親王の怨霊も加わっていたのかもしれない。
桓武天皇が怨霊に悩まされていたらしいことは歴史上の常識ともいえるが、怨霊により歴史が動いたというのは私たちには納得しがたい面はある。しかし、桓武天皇の御代のほんの五十年ほど前には、権力の頂点にあった藤原氏の四兄弟が長屋王の祟りによって次々と死んで行ったと広く信じられていたようであるから、桓武天皇の心労は決して小さな物でなかったはずである。

789年には、再び新しい地を求め、794年には、新しい都が平安京と命名された。
この地が選ばれたのには、風水上極めて優れた土地であるなどとも言われているが、選定された一番の理由は、やはり秦氏の本拠地であったことが大きな理由と考えられる。
いずれにしても平安京は、千年を超える王城の地として繁栄して行くことになる。
私たちは、平安京の生みの親は桓武天皇だと考えがちであるが、もしかすると、早良親王、あるいは井上皇后や他戸親王の怨霊に導かれて、大和王権が平安の都に辿り着いたのではないかと思ったりするのである。

                                        ( 完 )

     ☆   ☆   ☆




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嬉しいことが沢山

2017-06-01 08:38:02 | 麗しの枕草子物語
          麗しの枕草子物語

               嬉しいことが沢山

嬉しいことって、意外に沢山あるものですね。

はじめて見る物語を、一の巻を読んで、続きをぜひ読みたいと思っていたところ、うまく見つけることが出来た時。これはとても嬉しいものです。

「どうなることか」と心配になってしまうほど恐ろしい夢を見た時、大したこともないとうまく説明してくれた時は、とても嬉しい。

高貴な方の御前で、女房が多勢集まっている時、昔の話であれ、最近お耳にされた噂話であれ、お話になられます時に、私と目を見合わせながらお話になられるのを感じた時は、それは嬉しいものですわ。

遠い所はもちろんのこと、同じ都の中であっても、自分にとって大切な人が病気だと聞いて、「どんな様子なのか」と心配ている時に、全快したということを人づてに聞いた時は大変嬉しい。

想う人が、他人から褒められたり、高貴な御方から「出来る男だ」などと仰られるのを聞くのは、自分が褒められるよりずっと嬉しいものですわ。

幾日も幾日も、ひどい症状を患っていたのが、ずっと良くなってきたのは嬉しい。これも、想う人の場合は、自分自身の時より遥かに嬉しいものですねぇ。

中宮さまの御前に、女房たちがぎっしりと坐っているので、あとから参上した私は少し離れた柱のもとに控えていますと、早速お目をとめられて、
「こちらへ」
と仰せ下さいますのは、それはそれは嬉しいものでございます。


(第二百五十八段・嬉しきもの、より)
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