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運命紀行  豊臣から徳川へ

2013-12-10 08:00:25 | 運命紀行
          運命紀行
               豊臣から徳川へ

慶長三年(1598) 、稀代の英雄豊臣秀吉が没すると時代は再び激しく動き出す。
その渦中の中心人物である徳川家康は、秀吉の残した法度を無視して、秀吉恩顧の有力大名に対して婚姻による自陣営への抱き込みを画策していった。
当然その対象となるのは、豊臣政権の在り方にいささか不満を抱いていて、且つ実力を有している大名を狙い撃ちにしたことは当然のことである。

その大名とは、次の五人である。
伊達政宗は、奥羽の雄藩である。関東を拠点とする家康にとって敵にすれば背後を襲われる可能性があり、何としても味方につけたい人物である。
福島正則は、小姓の頃から秀吉に仕え、秀吉夫人ねねと縁戚関係でもあり、味方にすることが出来れば、秀吉恩顧の大名を引きこむ大きな力になるはずである。
加藤清正も正則と同様で、この二人が関ヶ原の戦いにおいて東軍につくこと自体が、豊臣政権の脆弱さの証左ともいえよう。
黒田長政は、秀吉の軍師として名高い黒田孝高(官兵衛)の嫡男である。この頃孝高は隠居して九州にあったが、それは自分の器量を秀吉にうとまれることを恐れてのことであって、実際に関ヶ原の戦いが勃発すると、加藤清正らとともに九州を席巻するほどの勢いを見せているのである。ぜひ味方にしたい大名であった。
そしてもう一人が、本稿の主人公蜂須賀家政である。

もちろん、家康が婚姻政策で懐柔を計ろうとした相手はこの五人に限ったことではなく、たまたまこの五人が実現しただけだといえないこともないが、豊臣政権の在り方に不満を抱いている武将たちの中から、まことに適切かつ強力な人物を選んだものと感心させられる。
その中で、一見した場合、領地の大きさやカリスマ性において、蜂須賀家政はやや小ぶりのように見えてしまう。家康が、ぜひ味方につけたいという魅力はどのあたりにあったのだろうか。

蜂須賀家政は、永禄元年(1558)に蜂須賀正勝の嫡男として誕生した。
家康よりは十六歳年下であるが、秀吉死去の時点では四十一歳になっていて、五人の中ではもっとも年長なのである。つまり、家康は、家政をすでに一流の武将とみた上で積極的な働きかけを行っているのである。

家政の父正勝は、蜂須賀小六という名前の方がよく知られている。
秀吉が出世の糸口をつかんだとされる、墨俣城の築城に前野将右衛門と共に協力した人物で、織田信長はともかく、秀吉にとって最も重要な人物の一人として挙げることができよう。
小六は、大永六年(1526)尾張国海東郡蜂須賀あたりに勢力を持つ国人城主正利の長男として生まれている。城主といっても、現存するような城とは似ても似つかぬ少し大きな屋敷か砦程度のものであったと思われるが、歴とした豪族の出身である。

父の死後母の故郷である丹羽郡に移り、やがて、川並衆を率いて水運を家業とし、地理的な知識や人脈を通じて、美濃の斎藤道三、尾張岩倉の織田信賢、尾張犬山の織田信清などに仕えたこともあるらしい。
秀吉との出会いについては諸説あるが、かつては名場面とされた、秀吉が矢矧川の橋の上で寝ている時に野武士(野盗)の大将小六と出会うという説があるが、これは、当時矢矧川には橋は架けられておらず、史実としては否定されている。
小六は秀吉より十一歳年上であるが、出会ったのが秀吉が十代の頃だとすれば、一時秀吉が小六に仕えていたという方が正しいように思われる。

蜂須賀氏は、秀吉の側室とされる吉乃の実家生駒氏とは姻戚関係にあり、また商売上の関わりもあったようで、その関係から秀吉は生駒屋敷に出入りするようになり、織田信長に仕えるようになるのも、吉乃の口添えがあったからだとも伝えられている。
秀吉は、信長に小者として仕えるようになると、その天分と努力によって大きく羽ばたいていく。
信長が美濃国の攻略を進めている頃は、おそらく小六は、秀吉の力強い援軍か客将のような関係だったとおわれるが、浅井氏を攻略し、秀吉が長浜城主に出世した頃には、その与力、あるいはすでに家臣といった立場になっていたようである。

その後は秀吉に属して各地を転戦、天正五年(1577)に始まる中国攻めにも加わり、播磨三木城、因幡鳥取城攻撃でも武功を挙げ、その功により播磨龍野五万三千石が与えられている。
ただこの恩賞は、もちろん秀吉の進言あってのことであろうが、信長から与えられたものと考えられる。
天正十年(1582)の本能寺の変の際には、攻撃中の備中高松城の開城に黒田孝高らと共に尽力し、あの中国大返しを成功させ、秀吉を天下人へと上らせるきっかけを作った。

天正十二年(1584)の秀吉と家康のただ一度の戦いである小牧・長久手の戦いにも従軍し、翌天正十三年の四国攻めにも参加し、戦後処理を行うなど際立った働きを見せている。
この功により、長宗我部元親への備えの意味もあって、阿波一国が与えられることになったが、小六は、秀吉の側近く仕えたいと申し入れこれを辞退した。秀吉はその心意気を受け取り、嫡男の蜂須賀家政に阿波一国を与えている。

天正十五年五月、小六は大坂城外の自邸で没した。享年六十一歳である。秀吉がもっとも輝いている頃に世を去ったことになる。
蜂須賀小六といえば、野武士的な印象が強く伝えられているためか、荒武者のような風貌をイメージする。しかし、その働きぶりは、槍一筋といった武者働きよりも、軍師的な働きに才能を見せ、実際に調略や民生面での成果が大きい。
秀吉の軍師といえば、「両兵衛」と呼ばれるように、竹中半兵衛(重治)・黒田官兵衛(孝高)が名高いは、小六はこの二人より前から秀吉の軍師的な地位にあったのである。
美濃攻め、中国攻め、四国攻めなどにおいても小六は相当の働きをしているが、半兵衛や官兵衛の作戦などの立案に、先輩顔など見せず従ったという。


     * * *

さて、父小六に代わり阿波一国を与えられた家政は、この時二十九歳である。
家政は、永禄元年(1558)に小六の長男として誕生した。小六はすでに川並衆の棟梁として頭角を現していたと思われる。
秀吉を支援した墨俣城築城の頃は家政はまだ九歳の頃であるが、当時のことであるから、この前後の早くから父と共に行動していたと考えられる。

中国路の雄毛利氏との戦いには、父と共に従軍しており、信長が倒れた後も父と共に秀吉に従い、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦にも参加している。
天正十二年(1584)には、播磨佐用郡に三千石の所領を得ているので、すでに単に父に属しているだけではなく、一軍を率いる器量を供えていたのであろう。
そして、天正十四年(1586)に父の代わりということで、阿波一国十八万石が与えられ、大名の仲間入りをしたのである。

蜂須賀家政は、父が軍師的な働きを得意としていたのに比べ、武者働きを得意とした勇将であったらしい。
しかし、阿波一国を与えられ十八万石の大名となると、内政面でも非凡なところを見せている。
最初は一宮城に入ったが、その後徳島城を築いた。一説によれば、この城の完成を祝って、住民たちに自由に踊るよう触れを出したのが現在に伝えられる「阿波踊り」だといわれている。
藩主の命令で祝いの踊りをさせることは簡単なことであるが、それが長年に渡って伝えられるということは、安定した治世が実施されることが絶対の条件である。

父が死去した後は、名実共に蜂須賀家の当主として秀吉に仕え、九州征伐、小田原征伐にも出陣し、文禄元年(1592)から始まる朝鮮の役では、二度とも出陣し活躍するも、戦線を縮小を唱える石田三成らと対立し、戦闘行為を非難され蔵入り地を没収されるなどの処分を受けている。
それとは反対に、共に異国での厳しい戦線を戦い抜いた福島正則や加藤清正などとは信頼関係を築いていった。
そして、秀吉が死に前田利家が没すると、家康の台頭が目立ち始め、東西の対立が激しくなっていった。
家政が武断派として行動し、家康に味方する形になっていったのは、その人脈を考えれば当然の選択ともいえる。
そして、家康は天下掌握の重要な施策として婚姻関係による自陣営の勢力拡大に務めて行った。

家政は、家康の誘いに乗って、徳川家の重臣小笠原秀政の娘氏姫を、家康の養女として嫡男至鎮(ヨシシゲ)の正室に迎えることを決断する。
この決断の理由としては幾つかのことが考えられる。
まず家康の実力が傑出していたことがある。豊臣に対する恩義を感じながらも、蜂須賀家の存続繁栄を考えれば、家康の申し出を無視することは出来なかっただろう。
また、大坂方と関東方といった対立が表面化してきていたが、その大坂方というのは、豊臣秀頼が盟主というのは名ばかりで、石田三成を筆頭とするいわゆる文治派が牛耳っていることは明らかで、家政に限らず秀吉恩顧とされる多くの有力武将が家康のもとに集まったのである。

それともう一つ、これは個人的な考えであるが、家政が豊臣への恩義よりも自家の安泰を模索したのには、秀吉の父小六に対する処遇に必ずしも満足していなかったのではないかと思うのである。
家政は、若い頃から、というよりまだ少年の頃から父小六と秀吉の関係をつぶさに見てきているはずである。
その過程において、秀吉の器量の大きさを最大限認めるとしても、秀吉の出世の糸口を作った功労者であり、軍師的立場で支え続けた父小六に対する秀吉の評価が、竹中半兵衛や黒田官兵衛より低く見られていたと思っていたのではないだろうか。
それに、小六と同じように最初から秀吉を支えてきた前野将右衛門が豊臣秀次の失脚に連座して切腹させられていることも、家政の心のどこかに引っかかっていたように思われてならないのである。

嫡男至鎮の正室に迎えた氏姫は、家康の養女とはいえ、その母は家康嫡男で悲劇の最期を遂げた信康の娘登久姫であり、徳川家にとって重要な姫なのである。
しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいては、大坂にいた家政はあまりに徳川に近いため、大坂方に糾弾され高野山に追放されるという目にあっている。ただ、嫡男至鎮は家康の上杉討伐軍に加わっており、そのまま関ヶ原の本戦で東軍として戦っている。
これにより、蜂須賀家の所領は安堵されたが、家政は家督を至鎮に譲り隠居した。

慶長十九年(1614)の大坂冬の陣では、家政は豊臣方から誘いをかけられているが、「自分は無二の関東方である」として拒絶し、駿府城の家康を訪ねて豊臣方からの密書を提出している。
至鎮は、冬・夏の両陣ともに活躍し、戦後に淡路国を与えられ、二十五万七千石に加増されている。
至鎮は、家政から家督を継いだ時はまだ十五歳であったが、大坂の陣での活躍ばかりでなく、塩田の開発など内政面でも優れた業績を残し名君として領民に慕われていたという。
しかし、元和六年(1620)、三十五歳の若さで世を去った。

跡を継いだ嫡男忠英(タダテル)は、まだ十歳であったが、この家督相続が認められた背景には、至鎮の正室である氏姫の存在があったかもしれない。
幕府は、家政に後見させることで徳島藩の存続を認め、家政は、嫡孫忠英が成人する寛永六年(1629)まで藩政を取り仕切った。それは内政に限らず、戦国以来の長老として、三代将軍家光の御伽衆として出仕するなど藩の基礎を築き上げ、途中養子を迎えるなどしているが幕末まで阿波徳島蜂須賀藩を存続させたのである。

豊臣から徳川へと権力が移行する難しい時代を生き抜いた蜂須賀家にとって、氏姫という徳川将軍家との繋がりは有力な武器となったと思われるが、しかし、蜂須賀家と同じ頃に徳川家と姻戚関係を結んだ他家のうち、伊達家と黒田家は幕末まで繁栄を続けたが、福島家と加藤家は断絶に追い込まれているのである。
その事実を考え合わせれば、阿波徳島蜂須賀藩の基礎を築いた藩祖家政の器量と腐心は一段と輝いて見えるのである。

     * * *



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