雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  重荷を捨てて

2013-05-02 08:00:40 | 運命紀行
          運命紀行

              重荷を捨てて


承久三年(1221)五月十四日、後鳥羽上皇は「流鏑馬(ヤブサメ)そろい」を名目に、諸国の武士千七百人を集めた。そして、その場で討幕の意志を鮮明にして、鎌倉幕府執権北条義時を討てと檄を飛ばした。
世にいう承久の乱の勃発であった。

平氏の台頭により天皇政権の力は衰えていたが、源氏による平氏討伐は成功し、安徳天皇共々西国の海に撃滅することに成功したが、代わって武士の棟梁となった源頼朝は鎌倉に幕府を開き東国を中心に勢力を強めていった。
ただ、鎌倉幕府は東国武士が中心で、土地支配や警察権を掌握していたのも関東を中心とした東国で、京都周辺や西国については朝廷の支配力はまだ健在であった。つまり、鎌倉時代初期は、幕府と朝廷による微妙な二頭政治が行われていたのである。

しかし、その微妙なバランスは、武士階層が次第に力を増していき、朝廷、つまり公家階層の勢力基盤である各地の荘園が武士たちに侵食され、年貢の取り立てが思うに任せられないようになり、その不満が増大していっていた。
安徳天皇が平氏一族とともに京都を離れた後、先帝がまだ天皇位にある中で祭り上げられるようにして僅か四歳で践祚を受けた後鳥羽上皇もこの時四十二歳、治天の君として朝廷に君臨していた。
幼帝の頃は、源平を相手に権謀術数を持って朝廷に君臨していた後白河法皇が後見していたが、後鳥羽が十三歳の頃に法皇が没すると、名実共に天皇家の頂点に立った。

この後鳥羽上皇という人物は、実に多才な人であったらしい。
文化面では特に歌人として優れ多くの和歌を現代に残しているし、何よりも新古今和歌集の勅撰者であることは大きな功績といえる。その一方で、武略面でも積極的な行動を示し、御所警護の侍たちを増員し、飛躍的に戦力を高めようと計っていたようである。
そうした実績をもとに、流鏑馬と称して集めた武士たちに討伐を宣言したのは、単なる思いつきではなかった。鎌倉幕府では、源実朝の死去により頼朝の直系は途絶し、北条氏による執権政治が行われていたが、その基盤は必ずしも一枚岩ではなく、三浦氏などの有力御家人たちとの軋轢も都にまで伝わってきていた。

後鳥羽上皇の檄に対して、ほとんどの武士たちは上皇方につくことを誓った。自信を得た上皇は、反対勢力である武士や公家たちを捕縛し、あるいは討ち取った。
この後、全国の豪族や寺社勢力などに宣旨を発すれば、畿内や西国はもちろんのこと、東国でも幕府に不満を持つ勢力が雪崩を打って鎌倉に襲い掛かるはずであった。
その宣旨は、翌五月十五日に発せられた。

ところが、鎌倉に心を寄せる勢力も黙視していたわけではなかった。
宣旨が発せられたことを伝える密使は、十九日の昼頃には、鎌倉に到着していたのである。
その当時、京都と鎌倉の間の旅程は半月余りかかっていた。早馬での伝令でも七日を要していたが、この密使は三日半ばかりで到着しているのである。馬を替えながら、夜も昼も休むことなく駆け抜けたものと考えられる。
上皇方の密使も宣旨を伝えるため急行しているが、鎌倉に到着したのは十九日の夕方になり、しかも鎌倉方に捕らえられている。密使はその他にも何人も送られているものと考えられるが、実はこの半日の差が戦況に大きな影響を与えたのである。

事態の重大さを知った幕府は、直ちに御家人たちを招集した。そして、その場に登場した北条政子は一世一代の演説をぶったのである。
その内容については、本稿『心を一つにせよ』に書いているので割愛させていただくが、頼朝の恩を忘れるなと訴え、心を一つにしてこの難事を打ち破れと熱弁をふるったのである。しかも、事変の張本人が後鳥羽上皇であることを承知していながら、打倒すべき相手は天皇家ではなく藤原秀康・三浦胤康ら上皇の側近らを挙げる配慮もしているのである。
御家人の中には、感動のあまり武者ぶるいする者、涙を流す者さえあったという。

直ちに京都遠征軍の準備が進められ、三日後には、東海道を中心に中山道、北陸道に分かれて大軍が進発し、六月十四日には総勢二十万の大軍となって京都に侵入したのである。
進軍途中で上皇方の抵抗もあり、幕府側が無傷ということではなかったが、全体としては一方的な戦いとなり、瞬く間に乱は終結し、生き残った後鳥羽上皇方はことごとく捕縛されてしまった。

乱後の幕府方の処置は、峻烈を極めた。
後鳥羽上皇は隠岐島に流罪、順徳上皇は佐渡島へ流罪、土御門上皇は土佐へ流罪。
貴族で上皇方についた六人は、実朝の妻の兄だけが流罪で、後は死罪。
同じく上皇方として戦った武士の殆どが死罪。
そして、上皇方から没収された荘園などは畿内や西国を中心に膨大な量となり、それらは幕府方の御家人などに恩賞として与えられ、あるいは新たな御家人が誕生したりしている。
これにより、武家勢力による全国支配は一気に進み、皮肉なことではあるが、朝廷勢力の巻き返しを図った後鳥羽上皇の試みは、武家政治を定着させ、時代を一歩進める働きを果たしたのである。

乱後の処理の中で、幼帝仲恭天皇も廃帝とされた。この時四歳の仲恭天皇は在位期間僅か七十日間で廃されることとなったが、父や祖父の思惑に翻弄されただけで何の罪もないはずだが、廃帝という厳しい処断が下された。結局、母の実家である摂政・九条道家に引き取られたが、十七歳で崩御している。
そして、もう一人、土御門上皇の罪も、何とも不可解なものであった。乱には全く関わっておらず、幕府からも罪はなくそのまま京都に住むよう伝えられたが、自ら望んで流罪となったというのである。その心境を、ぜひ知りたいものである。


     * * *

土御門天皇は、建久六年十二月、後鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。
そして、建久九年(1198)一月に践祚を受け三月に第八十三代天皇に即位した。数え年では四歳ということになるが、満年齢でいえば二年と四カ月での即位である。
これは、当時盛んに行われていた院政を行うためで、上皇となった後鳥羽院が治天の君となったのである。
なお、治天の君という言葉は、天皇家の家督者として政務の実権を握っている上皇や天皇を指す。但し、治天の君という地位は、平安時代後期に院政が行われるようになって登場した言葉なので、天皇を含めない方が適切なのかもしれない。

土御門天皇は、成長するにつれて父後鳥羽上皇とは違う性格を見せ始めたようである。後鳥羽はかなり激しい性格の持ち主であったと推定されるが、土御門は温厚な性格で、争いごとを好まなかった。鎌倉幕府に対する接し方も、全面対決型の後鳥羽に対して、土御門は協調路線を選ぼうとしていたようである。
もっとも、幼児の頃に即位し、退位したのが十六歳であるから、土御門の性格というより取り巻き連中の意向だったのかもしれない。

いずれにしても、そのような考え方の土御門天皇は後鳥羽上皇の意向には添わず、天皇らしい活躍を見せる機会もないままに譲位をせまられ、二歳年下の異母弟である順徳にその位を譲ることになる。
十六歳の、少年上皇とでもいえそうな土御門には、政務の実権など程遠い状況にあった。順徳天皇の院政は引き続き後鳥羽上皇が執っており、土御門は上皇という名前は得ても政務からは遠い存在であった。
やがて、順徳も、四歳のわが子仲恭にその位を譲り三人の上皇が誕生する。
そして、対幕府強硬派の後鳥羽上皇と順徳上皇は武力により政権の挽回を図り、惨敗する。

承久の乱後の厳しい処断により、二人の上皇は流罪となる。多くの公卿や武士たちが死罪に追い込まれる中では当然の結果ともいえるが、この二人の上皇とともに、今一人の上皇土御門も土佐に流罪となっているのである。戦乱とは全く関与していなかったわけであるし、幕府方もそのことを十分承知していたのにである。
残されている記録によれば、父と弟である二人の上皇が流罪となりながら自分だけが無傷で都に残るわけにはゆかない、と言って自ら志願しての流罪だったとされている。

父には疎まれ、弟からは軽視されていた土御門であったが、父への孝心は強く連帯しようとした美談とされているものもある。
しかし、本当にそうだったのだろうか。
孝心など全くなかったと断言するわけにはいかないが、天皇家やその取り巻きの多くが断罪され、あるいは追放されていく中で、一人残される身に天皇家としてのしがらみや、立身を望む人たちの渦中に巻き込まれていく煩わしさが重かったのではないか、と考えてしまうのである。
その重荷を捨て去る最良の方法こそが、自ら流罪の身となることだったのではないだろうか。

土御門上皇の配流先は、土佐の南端ともいえる幡多郡中村であった。従者二人と女房四人を連れての新しい生活であった。
この地において、上皇は井戸を掘り、寺院を創建し、和歌を作る日々を送ったという。
幕府も、他の上皇とは違い土御門に対しては好意的で何かと支援が行われたようである。
その後、少しでも都に近くという配慮からか、阿波国に移されている。
上皇を担いで決起を図る計画もあったようで、引き続き幕府の監視は厳しかったが、上皇は全く関心を示すこともなく風雅の日を送り、幕府もそれに応えて、阿波の御家人に命じて御所を造営させている。
重い荷を捨てた生活は、土御門上皇に心の自由を与えてくれるものであったのだろうか。
都を離れてからおよそ十年後に、阿波の地で崩御した。享年三十七歳であった。
上皇が崩御して十一年後、捨ててきたはずの都では、その子邦仁親王が第八十八代後嵯峨天皇として即位している。

残されている和歌の中にこのようなものがある。
『 行きつまる里を我が世と思へども なほ恋しきは都なりけり 』
重荷として捨ててきたはずの都は、やはり、生涯捨てきることが出来なかったのかもしれない。

                                       ( 完 )

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 慎ましくて激しくて ・ 心... | トップ | 颯爽たる姿 ・ 心の花園 ( ... »

コメントを投稿

運命紀行」カテゴリの最新記事