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運命紀行 ・ 今一つの三本の矢  

2013-10-05 08:00:27 | 運命紀行
          運命紀行
               今一つの三本の矢

毛利元就という人物が、戦国期の諸大名の中でも傑出した人物であったという評価には異論はあるまい。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と戦国の世を駆け抜けて行き、天下統一に至った人物たちに比べれば、いかにも地味であることは確かである。しかし、それをもって、元就という人物を過小評価するのは間違いだと思う。

元就という人物が評価される場合、幾つかの固定観念のようなものがあるように思われる。
例えば、「優柔不断であった」とか、「大器晩成型であった」とか、「もっぱら謀略を得意とした」などである。
元就の生涯を調べてみると、言われている評価がとんでもない間違いだというわけではないが、それらのことが過大評価されているように思われる。

「優柔不断である」という部分については、元就が登場する小説などにおいては、そのように描かれている場合が多いことと、元就という人は正室の妙玖(ミョウキュウ・名前は伝わっておらず、法名である)をとても大切にしていて、何かと相談していたらしいことにも原因しているようだ。また、戦にあたっては、事前の準備を重視したことにも原因しているかもしれない。
しかし、元就の数多い合戦歴を見ると、無謀なほど果敢な戦いに臨んでいることも少なくない。

「大器晩成型であった」というのは、少し違う気がする。
その根拠は、毛利元就が広く天下に知られるようになった戦いは厳島合戦だとされるが、この時元就は五十五歳であり、元就の領土はこの戦い以降に急激に拡大していることから、大器晩成型という評価がされることがあるらしい。
しかし、元就の初陣は二十歳で、これも当時の武将の子としてはかなり遅い方だが、それは元就の家中での地位が高くなかったからであって、この初陣は、銀山城主武田元繁が吉川領の有田城を攻撃してきたのを救援するためで、毛利家の命運を賭けた戦いだったのである。この戦いに、元就は甥の幼い当主の代理として采配を振るっているのである。
その後は、元就の生涯は戦いの生涯であった。厳島合戦に至るまでの戦歴を見れば、とても大器晩成型の人物だとは思えないのである。

「もっぱら謀略を得意とした」ということについては、当時の記録などにも書き残されており、「稀代の謀将」とまで言われていたようであるから、否定は出来ない。周辺の有力国人(豪族)を婚姻によって味方陣営に加えて行っていることは、歴とした事実でもある。それも、家督争いなどの内紛に介入して、わが子を養子として送りこむ方法などが多く、謀略に長けていたと表現される部分も少なくない。
しかし、養子として送り込まれる相手も、そうそう凡庸な人物ばかりではないわけで、そこには例え不承不承であったとしても、誼(ヨシミ)を結んでみようと思わせる魅力が元就にはあったともいえる。

さて、伝えられている元就の人物像の中で、正室の妙玖と仲が良かったということは真実らしい。妙玖は毛利と同じような国人の吉川国経の娘であるが、とても大切にしていたようである。
元就には側室も何人かいたが、妙玖の生んだ子供と側室の生んだ子供とは相当差別していたらしいことが伝えられている。
それに、妙玖は三人の男子と二人の女子を儲けているが、いずれも優れた人物だったらしい。

長女は、幼くして高橋氏の人質となり、その結果殺害されるという悲運のうちに夭折している。
次女の五龍局は、その名前のように才気に溢れた女性だったようであるが、長年敵対関係にあった有力国人の宍戸隆家に嫁ぎ、宍戸隆家は毛利家一門の筆頭として毛利本家を支える存在になる。
長男隆元は、嫡男として元就から家督を継ぐが、四十一歳で亡くなっている。病死とされているが暗殺された疑いもあり元就も対応するような行動をしている。隆元は温和な性格で、弟たちのような武勇の誉れは少ないが、亡くなった後にその存在の大きさが分かったといわれている。元就の悲しみは方は尋常ではなく、幾多の難関を切り抜けた元就の生涯にとって、隆元の死は最大の誤算であったといわれている。
次男元春は、妙玖の実家を継ぎ吉川元春となる。
三男隆景は、小早川に入る。
この二人は武勇に優れ、吉川氏は安芸・石見に勢力をもっており、小早川氏は安芸・備後・瀬戸内海に勢力を張っていて、「毛利の両川体制」と呼ばれる強力な軍事力で毛利本家を支えている。

元就が、隆元・元春・隆景の三人に対して、三本の矢を示して協力し合わなければならないと諭したとされる「三本の矢の教え」は、大変有名な話である。
この逸話が事実であるか否か、あるいは事実だとしてもどのような場で述べたものかについては諸説ある。
しかし、逸話の真否はともかく、毛利氏が中国地方に強大な領土を手中に収めて行く過程において、元就個人の能力もさることながら、三本の矢にたとえられた優秀な三人の息子なしでは成しえなかったことは確かであろう。

だが、毛利氏の歴史を今少し長い時間帯で見た場合、少し違ったものが見えてくる。
順調に領土を広げ、中国地方の覇者となった毛利氏であるが、やがて関ヶ原の戦いという試練にぶつかる。
滅亡の危機を切り抜けた毛利氏は、幕末期には再び長州藩として歴史の檜舞台に登場してくるのである。
関ヶ原の戦いの後大幅に領地を減らされ、忍従の時を強いられるが、それに耐え抜いた部分まで広げて考えた場合、「今一つの三本の矢」とでも表現したいような、三人の兄弟が浮かび上がってくる。
それは、元清・元政・秀包という毛利の三人の兄弟であり、その母が今回の主人公である「乃美大方」なのである。


     * * *

乃美大方(ノミノオオカタ)が元就に輿入れしたのは、天文十七年(1548)の頃と思われる。元就の正室妙玖が亡くなってから二年ほど経っていた。
乃美氏は小早川氏の一族で、隆景に協力していた乃美隆興の妹である。(娘とする説もある)
当然政略が絡んだ結婚であるが、元就が正室を亡くした後でもあり、継室として嫁いだと考えられるが、側室扱いだったとも言われる。いずれにしても、元就は妙玖に対する思いやりは深く、たとえ継室であったとしても、妙玖と乃美大方との扱いにははっきりと区別をつけていたようである。

乃美大方の生年は不詳である。従って、元就のもとに嫁いだ時の年齢も分からないが、三年後の天文二十年(1551)に元就の四男にあたる少輔四郎を儲け、永禄二年(1559)に七男にあたる少輔六郎を儲け、永禄十年(1567)に九男にあたる才菊丸を儲けている。
偶然とはいえ八年ごとに三人の男児を誕生させているが、才菊丸の誕生時には元就は七十一歳であり、四年後には亡くなっている。
元就には他にも側室がおり、子供も儲けているが、かねがね正室以外の子供のことを、「虫けらのような子供たち」と表現している。また、三本の矢にたとえられた妙玖の子供たちに、「もし、この子等が賢ければ取り立てるように」と親らしい言葉も残しているが、同時に「たいていは間抜けで無力だろうから、その時にはどのように取り扱っても構わない」と言い残しているともいう。

元就の真意が那辺にあるのかはともかく、妙玖の子供たちが際立って優れていたことも事実のようである。そのような環境の中で、乃美大方はどのように三人の息子たちを養育していったのであろうか。
もちろん、今日のように、子供たちを母親が手塩にかけて育てられるわけではなかった。それぞれに乳母が付き守役が付いたことであろうし、子供たち自身も早くから試練にさらされている。
しかし、乃美大方の儲けた三人の息子たちは、父親の評価を裏切るかのように母親の期待に応えて、それぞれに毛利家存続のために大きな役割を果たしているのである。

乃美大方の最初の子少輔四郎は、永禄九年(1566)長兄の嫡男である当主輝元の加冠を受けて元服した。元清を名乗るのはこの時からと思われる。
この時元清は十六歳であるが、当主の輝元はまだ十四歳であった。
永禄十一年(1568)、村上通康の娘を妻に迎える。村上水軍との関係強化を図るための結婚であった。
この年、毛利の主力が北九州に進出すると、宇喜多直家が背いて備中松山城と猿掛城が攻め落とされてしまった。元清は、父元就の命令により、三村元親と共に両城を奪還した。
翌年には、北九州の大友氏との戦いに加わり、暮には三村元親らと宇喜多軍と戦っているが、この時は大敗を喫している。
元清は、すぐ上の兄隆景とでも十八歳違うが、元服と共に次々と出陣しており、すでに武勇に優れていたようである。

その後も宇喜多軍との攻防は続き、松山城などを奪い返した後、元亀三年(1572)安芸桜尾城を与えられ、終生の居城とした。
天正二年(1574)には、元春・隆景の兄たちに従って、三村元親討伐軍に加わっている。三村元親とは、共に宇喜多軍と戦ってきた仲であるが、毛利氏が宇喜多氏と同盟することとなり、これに反発した元親が織田信長と通じたためであった。この頃の中国路は、敵と味方が入れ替わる動乱の時期であった。

天正三年(1575)、毛利氏に従った猿掛城の城主で、三村一族でもある穂井田元祐の養子となり、この後は穂井田姓を名乗り、毛利氏の東の守りの重鎮となる。
天正十年(1582)には、備中鴨城において羽柴秀吉軍と戦い、備中高松城の戦いで毛利氏が秀吉と講和を結んだ後は、秀吉に臣従した毛利軍として戦い続けた。
天正十三年(1585)、長男の秀元が当主である輝元の養子となったため、元清も毛利姓に復している。

天正十七年(1589)には、安芸広島城の築城に参画し、城下町建設においても普請奉行として采配を振るい、武略ばかりではない才能を示している。
文禄元年(1592)の文禄の役においては、病床の輝元に代わって毛利軍の総大将についている。
この後も、吉川氏・小早川氏が独自路線に傾いて行く中、元清は毛利の重臣筆頭として輝元を補佐し続けるのである。
元清は、慶長二年(1597)桜尾城において没した。享年四十七歳であった。

乃美大方の二番目の子は、永禄十二年(1569)、安芸国の有力国人である天野氏の養子となった。十一歳の頃である。
天野氏当主の元定が死去したのち、家督をめぐって内紛が起きていた。これに元就が介入し、元政(少輔六郎)を元定の婿養子としてその娘と娶せ家督を継がせることで事態を収束させたのである。元就の最も得意とする戦略ともいえる。
その後、大内氏庶流である右田氏の養子となり、その名跡を継いでいる。
元政も武人として兄元清と行動を共にすることが多かったようだ。
後に毛利姓に戻り、右田毛利氏として一家を立てる。
慶長十四年(1609)萩で没した。享年五十一歳であった。

一番下の子の生涯は、もっとも波乱に満ちていたといえる。
秀包(ヒデカネ)と名乗ることになる元就の九男は、誕生した時にはすでに長兄は亡くなっており、当主は甥にあたる輝元であった。つまり、秀包は生まれた時にはすでに当主の叔父にあたったわけである。さらに、父も五歳の頃には死去するので、元就の教えを受けることはなかったといえる。

元亀二年(1571)、五歳にして備後国内に所領を与えられているが、父の死と関係があると思われ、早くも独立を促されている感じである。
しかし、この年の五月に備後国の国人太田英綱が死去すると、その近臣たちに懇願されて後継者となり太田元綱と名乗ることになる。この時は、元就は死の直前であり、毛利氏から介入したものではないらしく、後継者になることを決定したのは、元春か隆景と想像される。

天正七年(1579)、兄の隆景に嫡子がいなかったため、その養子となり小早川元総を名乗った。これには、母出自の乃美氏が小早川庶流であることが関係していたようだ。
天正十一年(1583)、人質として吉川広家と共に羽柴秀吉のもとに送られた時に、「秀・藤」の字を賜り、藤四郎秀包と改名した。
秀包は秀吉に可愛がられ、人質の身でありながら小牧・長久手の戦いには秀吉に従って出陣しており、天正十三年には、河内国内に一万石が与えられ、四国征伐で功を挙げると、伊予国大津城三万五千石が与えられた。秀包が十九歳の頃である。

天正十四年(1586)からの九州征伐では、兄であり養父である隆景に従って従軍し、戦後に隆景が筑前・筑後に領地を与えられると、筑後国内に七万五千石が与えられ、翌年には久留米城を築いた。
その後、大友宗麟の娘を妻に迎え、宗麟との関係から洗礼を受け、キリシタン大名としての活躍もしている。
秀吉からは豊臣性を与えられ、久留米は十三万五千石に加増されるなど、厚遇され続けていた。
しかし、文禄三年(1594)、秀吉の養子木下秀俊(後の小早川秀秋)が隆景の養子となったため、秀包は廃嫡されることになり、別家を創設した。これは、秀吉が毛利本家に養子を送りこもうと画策していることを察知した隆景が、小早川が養子を受け入れることで毛利本家を守ったのだといわれている。

関ヶ原の合戦では、西軍に属したため改易され、領地を没収されたため輝元より長門国内に所領が与えられたが、毛利姓に復した後出家している。
この頃から体調を崩していて、慶長六年(1601)に病没した。波乱に満ちた三十五年の生涯であった。
なお、嫡男は、吉敷毛利家を興している。

乃美大方の三人の息子たちは、秀吉没後の激しい時代を大幅に領地を減らした毛利本家を守り抜くのに大きな貢献を果たしているのである。
特に、元清の子孫たちは、本家萩藩の支藩として長府藩・清末藩の藩主として存続し、輝元の直系が絶えた時には、本家の養子として萩藩藩主となり、元就の血統を幕末まで守り続けたのである。
乃美大方は、関ヶ原の合戦の後、毛利氏の移封に従い長門国秋根に移り、慶長六年(1601)九月に、毛利家の安泰を願いながら生涯を終えている。

元就の正室妙玖の生んだ、隆元・元春・隆景という三本の矢は確かに偉大であるが、継室乃美大方の生んだ、元清・元政・秀包の三人も、毛利家にとって「今一つの三本の矢」と評するに値する存在であったと思うのである。

                                   ( 完 )





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