雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

遥かなる友よ   第五回

2010-02-12 08:40:44 | 遥かなる友よ

          ( 三 )


富沢氏の話。


   **


我々は、当時の満州国の北部、ソ連との国境近い地で第二次世界大戦の敗戦の日を迎えていた。


情報は混乱していた。
偵察に出ていた我々の小隊が、伝令の将校から戦闘停止の命令を受けたのは、その日の夕刻であった。


わが帝国が降伏したということがどういうことなのか理解できないままに、我々は所属していた中隊に合流すべく移動を続けていた。
偵察に出る前に野営していた場所に中隊の姿はなく、行方を確認することができない状態であった。村人から情報を得ようと試みたが、村人たちはすでに全てが敵と化していた。


中隊に伝えられた命令は「戦闘を停止し、武器を捨てて投降せよ」というもののようであったが、投降するということがどういうことなのか我々の小隊の誰もが分かっていなかった。
投降するということの不安と、そのようなことは絶対にあってはならない不名誉だという身に染みついた常識と、すでに国家そのものが降伏しているらしいということなどが、我々の判断力を混乱させ弱めていた。


それに、投降するにしても、戦うべき相手の姿を見ない日が続いており、誰に対してどうすればよいのかも判断できなかった。


我々小隊は中隊の姿を求めて山野をさまよい続けた。
戦闘を停止せよと命令されているからには武器を使用するわけにはいかなかったが、我々は武装したままだった。我々を襲おうとする暴徒の群れに数回遭遇したが、たとえ使用できない武器であっても我々の身を救ってくれた。


我々は、暴徒の姿に怯え、互いが互いの考えていることを推し量り、脱走すればどうなるかとの考えも脳裏に描いていた。すでに、数名の仲間の姿が消えていた。


そして、三日目の午後、我々の小隊は周囲を大軍に囲まれていた。初めて遭遇するソ連軍であった。

投降ということがどういうものなのかと思いあぐねていた我々の小隊は、あっという間に捕虜になっていた。
ソ連軍には流暢な日本語を話すアジア系の通訳がいて、捕虜になった我々に対して極めて事務的に指示を与えた。特別手荒なことはされなかったが、傷を負っていた二人と将校二人は小隊から分けられ、それ以後出会うことはなかった。
別れた四人の消息は、その後全く知ることができないままである。


我々小隊で残った総員は十八人であった。
このあとずっと行動を共にすることになるが、入隊間もない兵隊が多く、上等兵であった私がリーダー格になった。このリーダーというのは、日本人捕虜を管理するためのソ連軍の手法らしく、私は小隊長の立場になった。
別に権限があるわけでもないが、隊のトラブルの責任はリーダーに負わされていた。


我々は、その日のうちに軍用トラックに詰め込むように乗せられて移動した。途中何度か休憩したが、翌日の昼頃まで走り続けた。
その間に与えられた食事は、黒いパン一つと塩湯のようなスープだけであった。想像を絶する空腹との戦いの始まりであった。


この黒いパンは、酸味が強いパンであった。そういう味付けなのか、劣化したための味なのか分からないが、材料は小麦というより麸 (
ふすま・・・小麦を引いたときにでる皮の部分) が中心と言ってもいいものであった。
長いシベリア生活の主食となるパンであった。


トラックがようやく到着した場所には、多くの兵舎らしい建物が並んでいた。一見して軍用らしいものが中心だが、一般の住居らしい建物も幾つか見受けられた。ただ、住民らしい人影は全くなかった。


そこには千人を超える日本人捕虜が収容されていた。殆どが軍人であったが、民間人らしい一群もいた。
我々もその集団に加えられたあと、新たに部隊を組むような編成をされた。もっとも人選など関係なく端から順に人数を数えて分けられていった。


新たに組まれた隊は百人から成り立っていて、二名のソ連兵が監視役として付いた。ソ連兵は、我々を五列縦隊に並べると点呼を取り員数を確認した。
わずか百人の隊であり、全員が兵隊であったから整然とした五列縦隊を作っていたにもかかわらず、人数確認に信じられないような時間を要した。
言葉が通じないことや、つい昨日まで敵国の兵士であった百人の捕虜を、二人だけで監視するといった事情があったにせよ、何度も何度も点呼を繰り返した。


ようやく人数の確認が終わると、二人のソ連兵は長い銃を振り回しながら、断末魔のような声を上げながら指示を始めた。
ソ連兵は全く日本語が話せなかったが、日本兵の中にほんの少しばかりロシア語を理解できる者がおり、大袈裟な手振り身振りを交えながら長い時間をかけて指示が伝えられた。


指示の内容によると、今夜はここで野営するということであった。
我々の隊は全員が兵隊だったので、武器は取り上げられていたがその他の装備はそのままだったので、枯れ草がたくさん残っている場所での野営は苦痛ではなかった。


ただ、食事は何も与えられず、水だけは十分にあるということだった。火も使ってよいから勝手に煮炊きして食べろという指示であった。片言が分かる日本兵が何を煮炊きするのかと、身振りを中心に何度も何度も質問を繰り返したが、与えられるものは水だけであることに変わりはなかった。
そしてソ連兵は、火事を出せば全員を射殺すると、銃を振り回しながら何度も身振り手振りを繰り返した。


行動を共にしてきた我々十八人は、全員が飯盒などを所持していたし米など若干の食料を持っていたが、百人の隊全体では、半数ぐらいのものが食料らしいものを全く持っていなかった。
我々は米を集め、十分ではなかったが米の握り飯を分け合って食べた。


その夜は、食事が終わったときと、ようやく眠りにつきかけたときの二回、点呼が行われた。
最初と同じように、時間のかかる点呼であった。


   **


 


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