雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

別れと出会いの季節 ・ 小さな小さな物語 ( 1753 )

2024-08-31 15:15:51 | 小さな小さな物語 第三十部

今年の桜前線は、ほとんどの地域で迷走気味だったようです。
季節外れの寒さに襲われたためですが、今月初め頃の予想とはかなり遅れていて、ここらきてどうやら開花がかなり進んだようです。昨日からは、数日前の寒さを埋め合わせるわけではないのでしょうが、初夏を思わせるようなお天気になっているので、開花から満開へは一気に進むのではないでしょうか。
お花見を予定していた人たちや、それ以上に、それを見込んでいた業者の方々はかなり予定が狂って苦労なさっている様子です。本来なら、昨日今日あたりが絶好のお花見日のはずですが、せいぜい ちらほら咲き程度の所が多いのではないでしょうか。

そして、多くの企業や官庁なども今年度の最終日に当たります。
三月から四月の上旬にかけては、年度替わりに関わる行事があり、個々の人にとっても、別れや出会いの多い季節でもあります。
学校の卒業式はすでに終っていますが、年を経て、その頃のことを思い出してみますと、わずかに記憶が残っており、いささかの感傷もないわけではないのですが、取り立てて強調するような出来事でもなかったような気もします。その時々には、例え小学校の卒業の時であっても、失われていく人間関係に切ない思いをしたはずですが、そうした思いは、何十年も経ってから色あせたというものではなく、数日とは言わないまでも、せいぜい数か月で過去の出来事に紛れ込んでしまったように思うのです。
卒業、転勤、転職、引っ越し等々、私たちは幾つもの別れを経験します。もっと個人的な問題としての別れ、異性間であれ、同性間であれ、上下関係であれ、仲間関係であれ、こちらは少々後をひくようです。

そうした多くの別れ、相当深刻な別れも含めて、ほとんどの場合は時間の経過ととも薄れていくもののようです。絶対に薄れない辛い別れがないわけではないのでしょうが、それでもそのほとんどは、客観的に見れば薄れていくものです。その要因の多くは、時間の経過でしょうが、もう一つは、新しい出会いだと思われます。
「五十になれば五十の縁あり」という言葉があります。もとは、男女の縁のことを言っているのですが、人の出会い全般に広げることも可能だと思うのです。また、「五十にして四十九年の非を知る」という言葉もありますが、こちらの方は、生きてきた過去を見直せと言った意味と考えられます。そして、二つの言葉とも古くからあるようですから、今日に直せば、七十、あるいは八十と読み替えるべきかも知れません。
二つの言葉からは、幾つになっても新しい出会いはあり、その時にも自我を通すだけでは駄目だと教えているように思うのです。

私たちの生涯には、幾つになっても新しい出会いの可能性はありますが、すべての出会いの数だけ別れがあるのも厳然たる事実です。
それだけに、あらゆる出会いを大切にしたいと思うのですが、もしその出会いが大切なものであるならば、必ずやって来る別れの時までを大切にしたいものです。
こんな理屈は誰でも分ることのはずですが、何故か、その大切な人が良い人であればあるほど「ないがしろ」にしがちなのは、どういう事なのでしょうか。
「五十にして四十九年の非を知る」という言葉は、大切な人とのこうした接し方を諫めているのかもしれないようにも思うのです。

( 2024 - 03 - 31 )


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