雅工房 作品集

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運命紀行  英雄の後ろで

2013-03-15 08:00:39 | 運命紀行
         運命紀行

            英雄の後ろで


わが国の歴史を俯瞰してみると、それぞれの時代に不世出と表現されるような英雄が登場している。
古代では、主として大王や天皇や有力豪族が中心であるが、少し時代が下れば、貴族階級などが加わってくる。しかし、これらは、政権者的な立場から考えた場合のことであって、芸術であるとか、宗教であるとかといった立場から見た場合、不世出の英雄といっても相当違う人物が浮かんでくることであろ。

このように、時代によりあるいは観点により英雄という人物の選定は様々であるが、やはり、戦国時代となると、他の時代以上に多様な人物を選び出すことが出来る。
天下人としての道を競い合った人物はもちろんとして、その過程で敗れ去った人物であれ、あるいは遥かに小さな舞台でしか活躍しなかった人物であっても、この時代の人物の生き様には心魅かれることが多い。
しかし、それらの多くの豪傑・英雄を輩出した時代にあって、あえて一人となれば、豊臣秀吉を挙げる。
この際好き嫌いは別にしなければならないが、織田信長や徳川家康にも同等以上の魅力を感じるが、一介の農民の子供からの活躍ぶりは、他の二人を圧倒する。
しかし、秀吉の鰻登りのような出世ぶりの陰には、未だに私たちが十分承知していないような何らかの要因があるように思えてならないのである。

例えば、ごく言われることであるが、信長に仕えることが出来たことであるとか、北政所と呼ばれることになる「ねね」の内助の功や、墨俣の一夜城などでよく知られている蜂須賀小六ら川並衆との繋がりは、単に面倒を見たとか気が合ったといったことでは説明できない何らかの繋がりがあったようにも考えてしまう。
そして、今回登場する木下家定という人物も、そのような秀吉を支えた一人のように思われるのである。

木下家定は、天文十二年(1543)の生まれである。
父は杉原定利、母は杉原家利の娘で、後に朝日殿と呼ばれる女性である。
杉原氏は桓武平氏の流れとされているが、当時の一族は農業を生業として行商など行っていたようで、時には戦働きをするといった階層であったらしい。

家定は嫡男であり、当初は杉原の家督を継いだがその後木下に改姓している。
家定には、くま・ねね・やや、という三人の妹がいたが、ねねとややは幼いうちに浅野長勝の養女となっている。長勝の妻は朝日殿の妹七曲殿で、子供のいない夫婦に請われたものらしい。
ねねとややは、浅野の家で成長していくが、ねねが十四歳の頃、とんでもない人物と結婚することになる。
そのとんでもない人物とは、後の豊臣秀吉、木下藤吉郎である。この結婚にはねねの生母朝日殿は大変な反対であったらしい。ねねはまだ十四歳であり、藤吉郎は十一歳ほど上で女性関係もいろいろ問題があったからである。朝日殿と藤吉郎は後々まで仲が良くなかったともいわれるので、虫の合わない関係だったのかもしれない。

しかし、やがて二人は強引に結婚する。今少し朝日殿が反対を通していたら藤吉郎の将来はどうなっていたか分からず、豊臣家というものは誕生していなかったかもしれない。
ただ、親族の少ない藤吉郎に木下の姓を与えたのは木下家定であるという説もあるので、この二人とは交際があったと考えられ、ねねの結婚にはこのあたりのことも働いていたのかもしれない。
いずれにしても、この結婚によって家定と秀吉との関係は強まり、やがて家定は秀吉の直臣となる。年齢は秀吉の方が七歳ほど年上であるが、義兄にあたることもあり当初は何かと頼りにしたと考えられる。

木下家定について、秀吉に関する歴史書や物語にはたまには登場してくることはあるが、目覚ましい活躍場面にはなかなかお目にかかれない。少なくとも、同じ秀吉の一族がらみといっても、加藤清正や福島正則のような武者働きは記録に残されていない。
それでも、天正十五年(1587)には播磨国に一万一千石余の知行地が与えられ、従五位下肥後守叙任、羽柴氏並びに豊臣性も授けられた。
さらに、従三位中納言に昇進、文禄四年(1595)には姫路城主となり、大坂城の留守居役にも任じられた。

このあたりの目覚ましい昇進は、家定の活躍からとは想像し難く、弟秀長の死去や一度は関白に就けた秀次を死に追いやったことなどが関係していると考えられ、秀吉に取って家定が安心できる人物であったということもいえるが、一族に有力者をもたない秀吉の悲劇とも見える。

やがて秀吉は没し、時代は大きく動いて行く。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、高台院となった妹ねねを守って合戦に参加することはなかった。
中立とも様子見ともみえる行動ともいえるが、高台院の存在価値を高く評価していた家康は、家定の働きを称賛して、戦後の論功行賞においては、備中国に二万五千石の領地が与えられ、足守藩の初代藩主となるのである。

秀吉生存中の功績については、単なる賢妻ねねの兄であることへの配慮だったようにしか見えないが、関ヶ原の後の家康の家定への処遇をみると、これもまた高台院ねねの恩恵だとは思えないのである。
豪快華麗に絶頂を極めた英雄秀吉の遥か後ろで、ただ付き従っていたかに見えた木下家定。しかし、秀吉没後の姿を追ってみると、もしかすると、秀吉とは全く違う形ではあるが、一つの運命をつつましやかに、結果において、力強く生き抜いた一人の男の姿として見えてくるのである。


     * * *

木下家定について、興味深いエピソードがないか探してみたが、なかなか見つからなかった。
秀吉に信頼される人物として、家中でそれなりの評価は受けていたと思われるし、表立った活躍はなくとも秀吉政権下でそれなりの働きはしていたのは確かであろう。
しかし、先に述べたように、家定やねねの実母である朝日殿はずっと秀吉とは仲が良くなかったらしい。その理由の一つは、ねねが養女として入った浅野家に比べて木下家に対する処遇は相当低いものであったこともその原因らしい。つまり、秀吉にとって家定という人物は、安心できる人物ではあっても大きなものを期待できる人物ではないという評価であったようだ。
事実そうだったのかもしれないが、稀代の英雄から少し離れて、ゆっくりと付いて歩いていたような人物だったのかもしれない。

ところが、わが国の歴史全体を考えてみると、木下家定の存在を過小評価することはとんでもない間違いであることが分かる。
天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の合戦は、さまざまな見方や さまざまな策謀が渦巻いた戦いであった。この戦いは家康が大坂城を離れた時からすでに始まっていたともいえるし、全国各地で戦いが展開されている。だが、関ヶ原で行われた東西両軍の大激突だけに絞った場合、勝敗を大きく左右させた人物は、おそらく小早川秀秋であろう。
膠着状態が続き、むしろ西軍が押し気味と見えた時、小早川秀秋の檄のもと小早川軍らの大軍が東軍に寝返り西軍は一気に崩れ去ったのである。

この関ヶ原の戦いの勝敗の帰趨を決定づけた小早川秀秋は、木下家定の五男なのである。
この時家定は、遥か京都の地で高台院と共に東西の対立を静観していた。
小早川秀秋の裏切りに家定も高台院ねねも全く関係ないのかもしれない。
ただ、家康は高台院ねねを大切に遇していたし、戦後処理において家定に好意的であったことも事実である。

家定は備中足守藩二万五千石を興した後、慶長九年(1604)に二位法印に叙せられ、同十三年(1608)京都で没した。享年六十六歳、まるで、この激しい時代をすり足で生き抜いたような最期であった。
なお、備中足守藩は、一時領地没収という危機にもあっているが、その後家定の次男利房に相続がゆるされ、江戸時代を生き抜いて行くのである。

                                         ( 完 )
  

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