雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  俗世去り難く

2012-01-20 08:00:33 | 運命紀行
       運命紀行

          俗世去り難く


西行が二度目の奥州への旅に立ったのは、文治二年(1186)七月のことであった。
この前年三月には、栄華を誇った平氏は壇ノ浦で滅んでいた。栄枯盛衰は世の常とはいえ、西行の生きて来た日々を想う時、その儚さはやはり重く伝わったことであろう。
その西行も、すでに六十九歳。武士を捨て、俗世を離れようとしてから、すでに四十六年、奥州への旅立ちは、最後の旅となる予感があった。

この旅は、源平争乱のさなか、平重衡により焼かれた東大寺再建のための勧進が、主要目的であった。造東大寺勧進職である俊乗房重源からの依頼により、奥州平泉の雄、藤原秀衡の支援を仰ぐためであった。歌人として名高い西行は、藤原秀衡とは共に俵藤太として武勇を誇った鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする家柄であった。
その縁を頼りにされた奥州行きではあったが、老骨を押しての遥かな旅を受けたのには、西行なりの決意があったと考えられる。

この頃伊勢に居住していた西行は、まず、鎌倉に向かった。その途上で詠んだとされる歌が残されている。

  『 年たけてまた越ゆべしと思ひきや いのちなりけり小夜の中山 』

  『 風になびく富士のけぶりの空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな 』

西行の奥州への最初の旅は、彼がまだ三十歳の頃であったから、すでに四十年にも及ぶ時が流れていた。
武士を捨て、俗世を離れたはずの西行であったが、未だ世間から全く離れることが出来ていない自分の姿を認めざるを得なかった。
しかし、この旅も、断り切れない浮世の義理から出立したものではあるが、わが身の年齢を考える時、やはり感慨はあった。おそらくこれが、自分にとっての最後の旅であろうし、無事戻れるものか確信のない旅であった。鎌倉に向かう途上の歌は、彼らしいてらいはあるとしても、本心ではなかったか。

鎌倉では源頼朝と一夜語り合った。
自らは藤原の流れをひき、どちらかといえば平氏に親愛の気持ちを抱いていたと思われる西行にとって、頼朝との交流は望むものではなかったであろう。しかし、文化人として知れた存在の西行が、奥州藤原氏の支援を得るための旅の途上で、鎌倉を素通りすることは出来なかった。
そして、平泉では無事寄進を得ることに成功したと伝えられている。

まだ三十歳の頃に訪ねた平泉は、おそらくまだ地方領主の館に過ぎなかったであろうが、この時は奥州藤原氏の絶頂期であった。館も寺院も、鎌倉などは並ぶべくもなく、京の都にも劣らぬ繁栄ぶりであったろう。
しかし、その平泉が、頼朝軍に滅ぼされるのは、僅か三年にも満たぬ後の事なのである。
西行は、この時平泉で何を感じ取り、何を思ったのであろうか。そしてまた、この旅を通じて、彼の生涯の命題に何らかの答えを得たのであろうか。
記録に残されているものは、大役を果たして無事奈良に帰り着いたことだけである。


     * * *

西行法師が生まれたのは元永元年(1118)のことで、平清盛も同じ年の生まれである。
つまり、平安末期の動乱の時期、そして、平氏の栄枯盛衰の時代の真っただ中を生きた人物だといえる。

西行の俗姓は、佐藤義清(サトウノリキヨ・憲清、則清、範清ともいう)である。
この佐藤氏というのは、傍流とはいえ不比等以来の名門藤原氏の一族である。その中の藤原北家の末裔である鎮守府将軍秀郷を祖としている。秀郷は俵藤太として知られる豪傑で、東国に基盤を築いた。この秀郷の長男千晴の系列が奥州藤原氏を誕生させ、末子千常の系列に西行は繋がっている。
西行の三代前の公清の時に佐藤氏を名乗るようになるが、それは代々佐衛門の尉を任じる藤原氏ということから「佐藤」を名乗るようになったのである。

西行・佐藤義清は、元服の後、左大臣徳大寺家の家人となった。その後、左大臣徳大寺実能が鳥羽院の別当であったことから、西行・義清もその能力を買われて、院の北面の武士として仕えるようになった。鳥羽院の親衛隊のようなものである。
北面の武士は、上下に分けられていて、上北面は大体四位・五位の官位の者が任じられ、下北面は六位の者が任じられた。義清は下北面で、官位は従六位くらいであったと考えられる。

官位は低くとも、北面の武士には武勇はもちろんのこと、貴族的な教養も求められたようである。
後に西行法師として和歌の道に名高いが、すでに十代の頃からその才能は評価されており、また母方の祖父の影響もあって、蹴鞠の名手であったらしい。また武勇面では、佐藤家が代々武官に就く家柄であり、後に頼朝が西行に弓馬の道についての話を求めたと吾妻鏡に記録されていることからも、優れた才覚を有していたと考えられる。

後に西行は、鳥羽院の葬儀にあたって、自分と鳥羽院の関係について、
『今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ 君に契りのある身なりけり』と、詠んでいる。
また、鳥羽院の因縁深い子供といわれる崇徳院とも近しい関係にあった。崇徳院の生母が西行・義清が最初に仕えた徳大寺家の出自であるからである。

西行の生涯を尋ねる時、その最大の謎は、出家の動機である。
西行が出家したのは、保延六年(1140)、二十三歳の頃である。正確な月日は伝えられていないが、突然の出家らしく周辺の人々は驚いたらしい。
下級貴族とはいえ、権力の中心に位置する藤原氏の血統であり、文武両面でそれなりの評価を得ていたし、佐藤家は東国に基盤を持っていて経済的には恵まれていたとされる。それだけに、周辺の人には理解し難い出家であった。

古来、西行の出家については様々な考察がなされている。多くの和歌が残されており、吾妻鏡や源平盛衰記など多くの文献に、断片的ではあるが彼の消息が記録されている。
従って、西行の出家をめぐる考察は単なる空想ではなく、それぞれの記録に根拠しているが確定に至っていない。

代表的な考え方を列挙してみると、
『にわかに道心が起こり』というもの。これは否定しようがない。
『親友の突然の死』に世の無常を感じたというもの。前日別れたばかりの親友が、一夜開けて急死してしまったことに、人の命の儚さを思い知ったというもの。
『失恋説』。これは源平盛衰記に記されているのが源泉らしいが、身分の高い女性に恋をして、一夜の契にこぎつけることは出来たが、結局失恋してしまったというもの。ドラマチックで近代最も期待されている原因ではある。
『政治原因説』。これは鳥羽・崇徳の政治対立に西行が巻き込まれて悩んだというもの。ただ、位階でいえばせいぜい六位か五位の西行が、政治的な問題に巻き込まれたというのは少々大袈裟な気がする。ただ、その背景を探ってみると興味深い視点が見えてくる。

鳥羽・崇徳の政治対立というが、実はもっと人間臭い所に原因がある。
鳥羽天皇が十五歳の時、藤原公実の娘であり左大臣徳大寺実能の妹である璋子が天皇の女御となった。三歳年上の璋子は翌年顕仁親王を生む。後の崇徳天皇である。
ところが、この親王は、璋子が白河法皇との密通により生まれたという公然の秘密が流れていたのである。白河法皇は、鳥羽の祖父であり、なお実権を握っていた。従って、白河法皇存命中は、波乱の芽は包みこまれていたが、死去と共に鳥羽・崇徳の対立は公然のものとなり、璋子に代わって寵愛を受けていた得子に皇子が誕生したことにより激しさを増していった。
そして、近年の小説などに描かれているように、もし西行の失恋の相手が璋子だとすれば、これは俗世を逃げ出したくなる原因になるかもしれない。

いずれにしても、西行の出家の原因ははっきりしないとしても、その目的は、どろどろの俗世から離れることであったに違いない。
しかし、皮肉なことに、西行は出家により、俗世間との繋がりがより緊密になったかのように見える。
歌人としての西行は、新古今集に最も多数の歌が選ばれているように、当代を代表する一人とされ、宮中を中心とした貴族社会や台頭してきた武士たちとも深い関わりを持ち、僧侶としても、仏法に帰依するという姿より、勧進など政治的な行動が目立つように見えてしまう。

それでも、平氏の栄枯盛衰や、共に仕えたことのある鳥羽と崇徳の対立や、崇徳院の哀れな最期などを想う時、世の無常を感じざるを得なかったであろう。
奥州への二度目の旅は、俗世にどっぷりと浸かってしまったわが身を見つめ直すための最後の旅であったのかもしれない。

『 願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ 』
この歌は、最後の旅の三年ほど後に、居住していた河内国弘川寺で詠んだものだと伝えられている。
そして、その翌年、文治六年(1190)二月十六日に西行は没した。享年七十三歳。
前年に奥州藤原氏は滅亡し、義経も討たれた。頼朝が征夷大将軍に就く頃のことである。
さらに言えば、二月十六日は当然望月のころであり、新暦では三月ニ十三日にあたるので、桜の花も咲いていたと思われる。
西行は、出家してから五十年を経て、ようやく俗世を離れることが出来たのかもしれない。

                                       ( 完 )
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