雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

監督の器 ・ 小さな小さな物語 ( 789 )

2016-04-03 16:37:26 | 小さな小さな物語 第十四部
今シーズンのプロ野球も、あとは日本シリーズを残すばかりとなりました。
子供の頃からのプロ野球ファンとしましては、今年のプロ野球の集大成である日本シリーズにも興味があるのですが、その反面、贔屓チームは早々にどこかへ行ってしまい、残念ながらストーブリーグの方が気になっているのも事実です。
ところが、監督交代と後任人事が大々的に報じられたものですから、しばらくは、プロ野球関係のニュースが楽しめそうです。

それにしても、今年は多くのチームで監督の交代があるようです。既に後任監督が決定しているチームだけでもそこそこの数ですから、コーチ陣をはじめ来季に向けてのチーム作りの話題には事欠かないことでしょう。
去る監督、新しく就任する監督、引き続き采配を振るう監督も含めて、報じられている範囲で考えてみても、やはり、監督には監督の器というものがあるような気がします。それは、何も監督に限ったことではなく、あらゆるチームや組織にとって、チームリーダーにはそれなりの器が求められることは当然ですが、ここでは、プロ野球の監督に絞って考えてみたいと思います。

以前に、あるプロ野球解説者が、「監督の采配によって勝敗が左右される試合は、年間にせいぜい二、三十試合だ」と話されていた記憶があります。試合数は記憶相違があるかもしれませんが、もっと少ない数字だったような気もします。
つまり、年間百四十試合だとすれば、残りの百十試合余りは、誰が監督であっても大差なく、素人が監督面して座っていても、強い方が勝ち弱い方が負けるものだというのです。
この話、とても興味深いと思うのです。
監督の能力など年間の成績には大した影響はないという取り方もできないことはありませんが、実は、優勝チームと二位、三位のチームとの差は、ほとんどの年が十ゲームも開きませんから、二、三十試合程の勝敗を左右させる采配は、とても重要だといえるのです。さらに重要なことは、残りの百試合を越える試合は、戦う時点でのチーム力の差にほぼ比例するとすれば、試合に臨むまでのチーム編成やコンディション調整など、監督を中心としたチーム作りこそが重要であり、むしろこの部分に監督の器の大小は現れるのかもしれません。

プロ野球の監督といえども人間であり、感情もあり性格もあるはずです。強気の人、慎重な人、早読み出来る人、粘り強い人、叱って育てる人、褒めて育てる人、等々様々であり、またそれらの特徴も一方的ではなく、混在しているはずです。
さらに、プロ野球となれば、勝てば良い、というわけにはいかない半面もあります。興行成績を無視してはプロスポーツは成り立たないはずです。
また、チームの成績を浮上させられないまま辞任に追い込まれた監督が、若手の育成やチームの体制を強化し続けていて、監督交代後に花開くことがあります。反対に、鋭角的な成績向上を見せ、華やかなスポットライトを浴びた監督の後任が、戦力や人材を食い散らかされた後始末に追われ、貧乏くじを引かされたことになる姿も時々目にします。
いずれにしても、来年も、プロ野球には十二人の監督がチームを率います。それぞれの監督が、どの場面でどのような動きを見せるのか、私たちには見えない部分でどのような施策を行っているのか、好き勝手に、そして無責任に、想像させていただくのが実に楽しみです。

( 2015.10.21 )
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ドラフト会議 ・ 小さな小さな物語 ( 790 )

2016-04-03 16:31:17 | 小さな小さな物語 第十四部
プロ野球のドラフト会議の報道をテレビを中心に熱心に見ました。
今年、高校生や大学生に注目される選手が多かったそうで、社会人野球の方はやや劣勢だったそうです。
途中、ハプニングなどもあり、なかなか興味深く見させていただきましたが、毎年熱心に見ているというほどではないのですが、以前とは大分雰囲気が変わってきているように見えました。

ドラフト制度については、その功罪について散々議論されたりご高説が披露されたりしてきましたが、概ね定着してきたようです。
かつては、この制度は職業の自由に反するのではないかという意見が根強くあり、今もそういった意見を報道の中で述べられる人もいるようです。
ドラフト制度の狙いは、一つには各チームの戦力の均衡を図ることにあると思いますが、もう一つの大きな理由は、契約金の高騰を抑えることにあることは間違いありません。契約金の高騰は、チーム間の戦力補強に大差がつくことや、経営基盤の弱い球団ばかりでなく、経営の足を引っ張りはじめたということもあったはずです。
ここ一、二年はどうか知りませんが、制度の裏で、一部の球団による闇契約金などの違反行為がつい最近まで行われていたことは、周知の事実のようであり、実際に報道されたこともありました。

その点、選択される選手の方は、ドラフト制度というものを相当理解してきているような気がしました。
毎年、交渉権を得た球団が気に入らないため拒絶し、何としても意中の球団への入団を模索し、実現させた人もいますが、テレビ報道を見る限り、今年の場合は、意中の球団ではないらしい表情を示す人もいるにはいましたが、それでもかたくなに入団を拒否するという人はいない感じがしました。
職業選択の自由といっても、望みの企業で働ける人などというのは、大学生にしろ高校生にしろ、どれほどいるのでしょうか。残念ながら、職業の自由というものは、自由に選択できるということであって、望みの企業に入社できるということではないわけです。
プロ野球の十二球団は、経営力に差があるのは確かですし、選手の技術ばかりでなく人格面も含めた育成ということになれば、おそらく相当の開きがあるように思われます。そういう意味では、くじ引きで運不運が左右されるということがあるのは確かでしょうが、必ずしも環境に恵まれた中から名選手が誕生するということでもないようなので、選ばれた球団での健闘を祈りたいと思います。

テレビで、今回ドラフトの対象になった選手の、これまでの軌跡などの記録をベースに作成された番組がありました。
それぞれのエピソードは、すばらしいと言うより、実に切なく、まだ成人にも達していない人がこれほどの経験をしてきたのかと、感動しました。さらに、家族の人たちの、特に凄まじいほどの経験を乗り越えて来た方の苦労を思うと、何としてもプロ野球の世界で、はつらつとした活躍をしてほしいものです。
ただ、スポーツの世界に限らず、現実は厳しいものです。プロ野球の世界に希望に胸を含まらせて多くの若者が入団していくわけですが、ほぼそれと同じ数の人たちがプロ野球選手としての生活の幕を閉じるわけです。その中で、引退試合や、そこまでいかなくとも、記者会見など行われる選手となれば、ごく限られた人になるわけです。
そう考えれば、今回選ばれた人たちには、精一杯の活躍を期待しますとともに、人格面の充実を積み上げて行ってほしいと思うのです。そしてそれは、それぞれの球団の大きな責務であることも忘れないでほしいと思うのです。

( 2015.10.24 )
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オンブバッタ ・ 小さな小さな物語 ( 791 )

2016-04-03 16:29:51 | 小さな小さな物語 第十四部
当地も朝夕は少し冷え込むようになってきました。
わが家のささやかな庭も、あれほど我が物顔にしていた雑草たちも勢いを無くし、それはそれで少々寂しいものです。
菜園と自称している部分には、ネギやインゲンの他に青菜を三種類ばかり植えています。その中に葉大根があるのですが、夏過ぎから三回目に蒔いた物が今元気に育っています。先の二回は、毎年のことながら、青虫毛虫の格好の餌場となり、人間様の口には回って来ないままでした。
そもそも、葉大根を植えた理由は、普通の大根では、すぐ近くのマーケットで売られている物に比べて、あまりにも見劣りすることと、根の部分より葉の部分の方が重宝されるという、何とも情けないことに起因しているのです。

その葉大根の三回目の物は、さすがに青虫たちも少なくなり、まあまあ順調に育ってきましたので、少し前から一度くらいは食べたいものと収穫のチャンスを狙っているのですが、今もなおオンブバッタの食糧源になっているようで、手を出しかねているのです。
今朝などは、大分冷え込んでいましたから、ぼつぼついなくなっているのではないかと思ったのですが、雑草が少なくなったことや、彼らはネギやニラはもちろん、キクナもあまりお気に入らないようで、わが家の庭の中では、葉大根が一番気に入ってくれているものですから、今しばらくは、人間などが手を付けてはいけないようです。

ところで、このオンブバッタ、いつも子供を背負っていて、寒くなって親が死んで行くのは自然の摂理だとしても、子供の方は可哀そうだと思い、少し調べてみました。
まず、驚いたことは、オンブバッタと口にはしていましたが、これは通称で正確な名前があるものとばかり思っていたのですが、なんのなんの、れっきとした正式名称なんですよ。因みに記してみますと、昆虫綱ーバッタ目ーオンブバッタ科ーオンブバッタ属に属している物が何種類かあるようです。
それに、負ぶっているのは子供ではなく、オスだそうで、メスの方がずっと大きいのですが、いつも一緒に行動しているらしく、それだと命が消えていく時も一緒だと思い、何だか安心しました。

この季節、わが家の庭で一番図体が大きいのは、酔芙蓉です。今年は開花するのが例年より少し早かったのですが、その後数多くの花を楽しませてくれましたが、ぼつぼつ終わりが近付いたようです。花が終わる頃、根元近くの幹だけ残し丸坊主にするのですが、別に枯らすわけではないのですが、少しばかり切ない気がします。
頑張っているオンブバッタの残されている命も僅かでしょうし、命には関係ないとしても、多くの花を咲かせ今なお青々と茂っている枝を全部切り取るのですから、酔芙蓉にすれば良い気分ではないことでしょう。
それでも、やはり季節は何の躊躇を払うことなく流れて行っており、秋は、自分もその中にいることをほんの少しばかり感じる季節でもあるようです。

( 2015.10.27 )
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軍事衝突 ・ 小さな小さな物語 ( 792 )

2016-04-03 16:28:41 | 小さな小さな物語 第十四部
例えば、これからの十年間に限って、わが国が直接的に他国と「軍事衝突」という事態に陥る可能性はあるのでしょうか。
このような問題について、当ブログは極力テーマに挙げるのを避けてきたように思います。とても、意見を述べるような知識や客観的な情報を得る手段を持っていないことがその理由ですが、考えてみれば、それも言い訳に過ぎず、この種の問題を見つめるのを避けてきたというのが真実なのかもしれません。
新聞やテレビなどのアンケートや、さまざまな人の意見などを聞いていても、いたずらに危機をあおる人から驚くほどの性善説を唱える人まで様々ですが、その大半の人は、そう簡単にわが国が「軍事衝突」に至る可能性など極めて低いと思っているみたいです。

専門家といわれるような人であれ、単に常識人程度の知識の持ち主である人であれ、その多くは、わが国を取り巻く環境が厳しくなってきていることを認め、そう遠くない時期に「軍事衝突」に至る可能性は否定していないにかかわらず、どこかで、絶対にそのようなことにはならないと思っているように感じられるのです。実は、私もその一人です。
こういった考え方の背景にある要因はたくさんあるのかもしれませんが、その最大のものは、あの壊滅的な惨敗を喫した敗戦以来、七十年間という長期にわたってそのような危機を経験していないことではないでしょうか。

しかし、世界に目を転じてみれば、それほど専門的な知識や情報を求めなくとも、一般紙の記事を少し克明に読めば、現時点で国家や地域勢力間で「軍事衝突」状態にある所は、決して少なくありません。そのいずれの場所も、わが国とは直接的な関係がないように思われますが、戦闘状態にあるそれぞれの勢力とわが国との関係を繋いでみると、遥か遠い国での出来事などと言っておれないような気もします。
そして、南シナ海では、大国どうしが何とも不穏な状態を感じさせます。
大国間あるいは世界を二分するような「軍事衝突」は現実問題としてはあり得ない、という意見があります。外交努力によって未然に防ぐだけの知恵があるというのです。本当に、人間にそれほどの知恵があるのでしょうか。本当に、この数十年の間に人類の知恵は向上したのでしょうか。

「軍事衝突」にまで至らないまでも、わが国の領土・領海・領空を廻る問題は、決して波静かという状態ではありません。
国内問題としても、この一年に限っても、安全保障に関する問題での国民間の対立は目立ってきています。
わが国、つまり国土・国民をどのように守って行くかということは、私などが考えてみても何の役にも立ちませんが、そう考える人が国民の過半を越えていけば、わが国の存立は揺らぎ始めるのではないでしょうか。
「軍事衝突」は嫌です。いわんや自分が武器を持って戦うことなど考えたくもありません。しかし、同時に、わが国があの敗戦後の七十年が国家として概ね平和で安泰であったことは、決して自然の流れなどではなく、多くの人の努力や望外の好運のもとで成されたものであることも認識する必要があるように思うのです。
さて、それでどうすれば良いかといえば、いろんな人の意見を聞くたびに覚悟が揺らいでしまうのですよ、情けないことですが。

( 2015.10.30 )
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自転車泥棒 ・ 小さな小さな物語 ( 793 )

2016-04-03 16:27:19 | 小さな小さな物語 第十四部
「自転車泥棒」といえば、往年の名作映画を連想する方も少なくないことでしょう。1948年に公開されたイタリア映画ですから、当時観られた方となれば少ないのでしょうが、最近でも、「名作映画ランキング」とか、「傑作集」などといった企画には、常連と言っていいほど登場する作品ですので、若い方でも映画ファンの方であれば、ご覧になった記憶があるかもしれません。
あらすじとなるとあまり自信が無いのですが、『第二次大戦敗戦間もないイタリアが舞台。二年も失業していたある男性は、職業斡旋所の紹介で役所のポスター張りの仕事を得るが、その条件に自転車を必要とした。その男の自転車は、生活費に充てるため質入れされていて、途方に暮れていると、その妻がベッドのシーツを質入れして金を工面して自転車を取り戻してくれたのである。男は大喜びで、六歳の息子を乗せて張り切って仕事に行くが、その初日に、仕事中に自転車を盗まれてしまうのである。そして、そのあと、悲喜こもごもにドラマは展開していく・・・』
わが国と同様に厳しい敗戦を経験したイタリアが舞台ということもあって、何とも切ない物語です。

さて、名作映画を紹介した後で、まことに恐縮なのですが、本日のテーマの「自転車泥棒」は、文字通り自転車を盗む奴のことなのです。それも大がかりな窃盗団のようなものを指すのではなく、放置自転車や、ちょっとした置き場などから失敬してくる輩を指しています。
実は、私が散歩などでよく通る公園や、その近くの小道には、時々自転車が乗り捨てられています。その辺りの清掃などにあたっている人の話によると、その殆どが、夜遅くに、駅前などから自宅近くまで乗ってくるために他人の自転車を失敬したものが多いらしいのです。その大部分は、持ち主に戻ることなく粗大ごみ並の処理がされるようです。
「ちょっと失敬して」などといえば聞こえがいいのですが、とんでもないことで、正真正銘の泥棒なのです。それも、生活が苦しくて盗む人など皆無で、タクシー代を浮かすか、いくら待ってもタクシーが来ないために他人様の自転車を盗んでいるのです。「罪の意識さえ持っていないのではないか」と私に話してくれた人は言っていました。
しかし、盗まれた方の人にすれば、敗戦間もない頃のイタリアとは比べものにならないほど豊かな日本ですが、やはり辛いと思うのです。親に泣きついてやっと買ってもらった子供の自転車かもしれないし、パートで得た収入を積み立てて買ったものかもしれないのです。

ここにも悲喜こもごもは存在しますが、イタリアの名作映画には感動がありますが、現在の日本になおはびこっている自転車泥棒には、さもしさしかありません。
テレビなどの報道では、外国からの旅行者の中に目に余るマナーの悪い人が報じられることがよくあります。しかし、現在でもなお存在しているわが国の自転車泥棒は、彼らよりマナーが上というわけではないはずで、非難することは簡単ですが、私たち自身も自分たちの行動を見直す必要はないでしょうか。
例えば、犬を散歩させている人は、まず全員が袋など糞を処理する用具を持参しています。それでも道端などで犬の糞が放置されているのを見るのは珍しいことではありません。タバコを喫う人が少数派になってきて、何かと制限があり気の毒に思うこともあるのですが、道端からタバコの吸い殻が消えないことを考えると、もっともっと税金を上げるべきだと思ってしまいます。つい最近のニュースでは、一流と考えられていたマンションにとんでもない悪意の工事が見つかり、これはかなり波紋を広げそうです。また、校長が教科書出版会社との不明朗な関係が報じられていますが、出版会社が平謝りの会見をしていますが、むしろ、関係した校長たちの小遣い稼ぎのようなさもしさが感じられてしまいます。

私たちの国民は、総じていえば、教育水準も人柄も、世界の人々に比べて恥ずかしくてならないということはないと思うのです。
しかし、人目が無ければ、恥ずべき行為だと承知のことを、ついついやってしまう人がまだまだいるということです。かく申す私自身も、自分の日常を振り返ってみた場合、人目がある場合と人目が無い場合とで行動に差があることを否定することが出来ません。幸いにも、他人様の自転車を盗むまではいっていませんが、少々さもしく思える行動も否定できません。
経済力も大事、軍事力も無防備で良いというわけにはいかないでしょう。しかし、国家の品格とは、人目の無い所でも、それなりの規範を保つことが出来るか否かにあるのではないでしょうか。
せめて、自転車泥棒ぐらいは絶滅させたいものです。

( 2015.11.02 )
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モラルの限界 ・ 小さな小さな物語 ( 794 )

2016-04-03 16:25:52 | 小さな小さな物語 第十四部
『モラル』という言葉は、さまざまな場面で耳にすることがありますし、ごく日常的に使っている人も少なくないと思われます。
しかし、多くの言葉がそうであるように、この言葉も使われる場面場面でその軽重が大きく変わりますし、発信する側と受け取る側で意味合いがずれることが少なくない言葉のように思われるのです。
そこで、『モラル』という言葉を広辞苑で調べてみますと、「①道徳。倫理。習俗。 ②道徳を単に一般的な規律としてではなく、自己の生き方と密着させて具象化したところに生まれる思想や態度。」と、ありました。

私たちは、日常生活でごく気軽にこの言葉を使う時には辞書の説明の②のうちから「道徳を単に一般的な規律」として用いているのではないでしょうか。実に絶妙の解釈だと思うのです。
それでも、仲間内や、職場関係においても、同じ意味であっても、「道徳を守りましょう」「規律を守りましょう」と言うより、「モラルを守りましょう」と言う方が、何か柔らかな感じがするような気がするのです。個人的な感覚かもしれませんが。
もしそうだとすれば、これはこれで『モラル』という言葉が、私たちの日常生活において潤滑油的な役割を担っていることになり、結構なことだと思うのです。

ただ、昨今の様々な事件や不祥事などを見てみますと、この柔らかな、耳ざわりの良い言葉を隠れ蓑にしているわけではないのでしょうが、どうも、先輩や世間の忠告を「自分の都合の良いモラル」で対処している感があり、しかも、それで安々と世間の目をあざむくことが出来ると考えているみたいなのです。さらに困ったことに、現実にそうした輩や企業がそれにより暴利を得ているみたいなのです。
最近問題になっているマンションなどのくい打ち工事の偽装問題ですが、改ざんだとか手抜きだとか、様々な表現がなされていますが、何のことはない、悪意を持った確信犯だと思われるのです。それも、現場の一責任者がどうこう出来るような問題でないことは、建築の素人であっても分かるはずです。同じような問題の、耐震ゴムの問題なども全く同様で、畑は違うとしても、政治にまつわる不愉快な事件のほとんどは同類に見えてしまいます。
そして、おそらくそれらの現場や、事務所においては、上位者から下位者に対して、あるいは下位者から上位者に対して、「モラルを守れ」「モラルを守ります」という言葉が氾濫しているのではないでしょうか。

私たちは国家の一員として生活しています。同時に一市民であり、人格を有する個人でもあります。人格が全くと言っていいほど無視されてしまう国家もある中で、私たちは、ごく特殊な例を除けば、ありがたい環境にあるといえましょう。
しかし、それでも、法律があり、さまざまな決め事があり束縛があります。とはいえ、通常はそのようなことはほとんど意識することなく、一つの流れとして生活を送っています。職務についても同様で、法律や倫理などに若干の差があるとしても、それなりの束縛があるはずですが、普段はあまり意識することなく職務をこなしていると思うのです。
そして、そのような無意識のように過ごす日常や職務を支えているものは、その人の持つ『モラル』ではないでしょうか。
家庭環境や教育や社会環境、あるいは職務を通じて培われる常識的な判断こそが『モラル』の根底を成すものではないでしょうか。そうだとすれば、今その『モラル』が危機に瀕しているかに見えるのです。つまり、『モラルの限界』が垣間見えているような気がするのです。
もし、『モラル』がその限界を超えて下方にぶれてしまった時には、おそらく、『モラル』を取り締まるべき束縛の時代が来るのではないでしょうか。恐怖政治の到来は、何も軍事力や精神コントロールからだけ生まれるものではなく、『モラルの限界』を底抜けした時にも芽生えるような気がするのです。

( 2015.11.05 )



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誰のために ・ 小さな小さな物語 ( 795 )

2016-04-03 16:24:27 | 小さな小さな物語 第十四部
「どうして自分は、人の世話をするだけの生活をしなくてはならないのか」と思ったと言う。
大分前になりますが、ある年配の女性から聞いた話です。彼女は、まだ壮年の夫に倒れられ、長い闘病生活の世話と子育てに追われ、やがて、夫とは悲しい別れがあり、子供たちがようやく独立し始めた頃、今度は夫の母の世話が始まったそうです。その姑は、もともとは夫の兄夫婦と同居していたが、さまざまな事情があり、住居に余裕のあることもあって引き取ることになったようなのです。これまで一緒に生活したこともなく、一人ではほとんど歩けない状態でしたから、彼女の子供たちは反対したようですが、最後は夫の世話の続きのような気持で引き受けたそうです。それから三年余り、最後の三か月ほどは施設に世話になったようですが、彼女自身も仕事を持っていて、厳しい期間であったようです。
姑を見送って一段落した時、「これで、ようやく自分自身のために生きていくことが出来る」と思ったそうです。

私が彼女の話を聞く機会があったのは、一人で生活するようになって半年余りが過ぎた頃のことでしたが、上記のような話をした後で、「でも、夫の世話をしていた時は夫のためにと頑張り、勤めが厳しい時も子供のためにと思い、姑の世話をしていた時は自分はこういう定めなのだ、と何度も思いました。しかし、今になってみますと、夫のためだけではなく、子供のためだけでもなく、姑のためだけではなかったように思うんです。でも近頃は、人って、そうそう誰かのためにだけ頑張ることなんか出来ないような気がしているんです」と続けたのです。
この頃彼女は一人暮らしになっていましたが、子供は二人ともすぐ近くにいて、しょっちゅう会っているそうで、寂しさとか心細さなどはあまり感じていないと思うのですが、「あの厳しかった期間も、誰かのために生きていたのではなかった」という言葉が、凄く印象に残っています。

『完全に誰かのために生きることは出来ないし、完全に誰かが自分のために生きてくれることもない』
あいまいな記憶なので、若干内容が違っているかもしれませんが、三百年ほど前のヨーロッパの哲学者の言葉です。
私たちは、一方的に自分が尽くしていると思うことがあるものですが、実は、それと同じ程度に、時にはそれ以上に尽くされていたり癒されていたりすることは珍しいことではありません。
たとえ話としてはどうかとも思いますが、犬や猫などのペットを子供以上に大切にし可愛がっている人がいます。飼い主は一方的に世話をしているつもりなのでしょうが、実は、飼い主が受けている恩恵の方がはるかに大きかったという経験は、多くの人にあるのではないでしょうか。

私たちは、誰かの為にだけ生きることは出来ません。しかし、身近に、私たちの力なしでは生きていけない人がいる場合もあるのです。まだ自立する前の子供などはその最たるものといえるでしょう。
しかし、悲しいことに、まだ幼い子供が実の親の暴力や養育放棄により犠牲になっているニュースが後を絶ちません。
ヨーロッパの哲学者が言うように、人は誰かの為にだけは生きられないのかもしれませんが、もし例外があるとすれば、親の子供に対する気持ちではないでしょうか。それを信じたいと思いますし、何とかこの種の悲しい事件が無くなってほしいと願っています。

( 2015.11.08 )
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政治の体制 ・ 小さな小さな物語 ( 796 )

2016-04-03 16:22:51 | 小さな小さな物語 第十四部
注目されていたミャンマーの総選挙は、どうやらスーチーさん率いる国民民主連盟(NLD)が勝利しそうです。
十一月十日の朝現在では、選挙そのものはNLDが圧勝する予想が伝えられています。今回の総選挙では、上下両院の合計664議席のうち166議席が国軍最高司令官の任命で選出されることになっているので、残りの議席を国民の投票で選出することになり、NLDが過半数を握るためには、選挙で選ばれる議席の三分の二以上の議席獲得が必要となります。
現時点では、NLDがそれを遥かに上回る勢いで票を伸ばしており、すでに現政権与党側が敗北を認めているようなので、ついに、スーチーさんが国家の先頭に立つ機会が実現しそうです。
もっとも、選挙の最終結果が確定するまでには、なお数日、あるいはそれ以上の日数を要するようです。また、NLDが勝利した場合の選挙結果を受けて、政権移行がスムーズに行われるかどうかには懸念があるとされています。さらに、現憲法では、外国籍の子供を持つスーチーさんは大統領になることが出来ないことになっているので、どのような政治体制が構築されるのかも注目されます。

スーチーさん、そしてNLDが目指している政治体制がどのようなものであるか、私はほとんど知りません。長年にわたる軍部を中心とした政治体制に国民の多くが不満を持っているとも伝えられていますが、その体制が強固であったとすれば、果たして選挙の結果で体制を大きく変革させることが可能か、あるいは、スーチーさんや側近が理想と描く政治が、曲がりなりにも動きだせることが出来るのか、期待と同じだけ懸念も大きいと思われます。
この二十年ばかりの間に起こった政治の体制の激変は、必ずしも良い結果を生み出しているとは言えないような気がします。
国民が大変な弾圧を受けていたと考えられていた国家が、国内の反対勢力の台頭、あるいは外部圧力で崩壊した例が幾つかありますが、その多くで、その後の混乱がさらなる悲劇を生み出しています。「たとえ、どんな犠牲や飢餓が伴おうとも、弾圧から逃れることの方が意義がある」という意見もあるようですが、政治の体制などほとんど関係なく、社会の底辺で懸命に命を繋いでいる人たちにとっては、受ける恩恵が混乱と飢餓だけだと言いたくなるような現実もあるわけです。

政治の体制の激変ということになれば、いわゆる先進国と呼ばれるような国家では無縁のように思われますが、必ずしもそうではないようです。
民主主義の旗頭とも言われるイギリスにおいてさえ、スコットランドの独立騒ぎは目新しいことです。あの騒動で、大英帝国の成り立ちを勉強させていただきましたが、あのような騒動があること自体が民主国家の証明だということかもしれません。
よく似た動きがスペインで伝えられていますし、大国と自治領、あるいは微妙な対立関係を包含している地域は少なくありません。
それらの根本原因は、土地と水(資源)の争いだと両断される意見があり、実にその通りだと思うのですが、それに加えて、民族や、宗教や、過去のいきさつなども無視することは出来ないはずで、さらに加えて、政治の体制も少なからず影響していると考えられます。

幸いわが国は、選挙により政権が交代することが可能な国家です。
第二次世界大戦による壊滅的な敗戦により、国家も国民も精神的にも物質的にも屈辱的なまでのどん底を経験することになってしまいました。しかし、その代償としてというわけではないのでしょうが、私たちは現在の政治体制を比較的短期間に手にすることが出来ました。
国内には、多くの政党があり、それぞれの主張をそのまま受け取るならば、とても単一国家としてやっていけそうもない懸念を感じますが、同時に、すぐさま崩壊や分裂に向かうとも考えられません。
最近では、国家と地域の間で政治的な軋轢が表面化している案件も幾つかあります。
国家には国家運営の責務があり、地方には地方住民の福祉を守る責務があります。それぞれがそれらの責任を果たす為の政治体制を敷いているわけです。そして、時には、その体制どうしが衝突するのですが、これを明快に解決させる政治体制は、まだわが国には誕生していないみたいです。

( 2015.11.11 )
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国産ジェット 大空へ ・ 小さな小さな物語 ( 797 )

2016-04-03 16:21:14 | 小さな小さな物語 第十四部
国産初の小型ジェット飛行機「MRJ」が初飛行に成功しました。
その優雅な姿が離陸し大空に飛び立っていく姿は、テレビでも各局が再三放映していましたが、何とも素晴らしく何だか誇らしく感じてしまいました。
開発に当たった関係者の方々が感動しているのは当然としても、見物している方々の中にも涙を滲ませている人がいました。国産ロケット打ち上げの時にも似た光景が放映されていたのを思い出しました。

それらの光景を見ていますと、「大空に飛び立つ」ということは、人間の本能に近い願望なのかもしれないと感じました。少々オーバーかもしれませんが、人類が進化の過程で、二足歩行の方向に進んだ代償に翼を持つ手段を捨てなくてはならなかったのではないかと考えてしまいます。
もっとも私はといえば、そもそも、あんな鉄の塊が空を飛ぶということじたい未だ信じることが出来ないのですが、ある人曰く「現在の飛行機のどの部分が鉄なんだ」と笑われてしまいました。
自動車やロケットがそうであるように、航空機もまた、科学の先端を走る素材が用いられ、電子技術の宝庫が飛んでいるようなものらしいのです。

第二次世界大戦敗戦後のわが国の航空機産業は、大きなハンデを背負ってのスタートでした。
大戦前の航空機といえば、わが国ばかりでなく、その用途のほぼ全てが軍事に関係するものでした。わが国の航空機開発の技術は、かの有名な「零戦」を生み出した頃は、世界のトップクラスにあったそうです。その頃、航空機産業に関わる労働人口は百万人にも上ったといいますから、国民生活を支える上でも大きなウエイトを占める産業だったのでしょう。
敗戦後、わが国は航空機の製造を禁止されました。その十年近い空白は、技術者の養成はもちろん、航空機そのものがプロペラからジェットへと移行し、全く別産業と言っていいほどの技術の変革があったようです。
そうした致命的なハンデを背負いながらも、主として米国機の修理や部品製造でノウハウを蓄積し、1962年には「YS11」の初飛行に成功しました。この飛行機も、当時、性能は高く評価されたようですが、フォロー体制が先進国に大きく劣っており、何よりもプロペラ機であったことから、1973年に生産終了となってしまいました。
2008年、大きな期待を担って「MRJ」開発が決定され、二年後に製造が開始され、そして、ついに今回の初飛行に至ったわけです。

「MRJ(三菱リージョナルジェット)」は、わが国初の国産ジェットですが、百万点にものぼるとされる部品は、エンジン初め、六、七割は外国製だそうです。開発・生産は、三菱重工業の子会社である三菱航空機が担っていますが、同社にはトヨタ自動車、三菱商事・三井物産・住友商事など多くの企業が出資しており、製造過程においては、他の有力航空機関連メーカーや、独自の技術を有する中小の企業まで多くが参画していることも報道されていました。
「MRJ」の開発には、二千億円を越える資金が投入されているそうですが、納入が開始するのはまだ一年以上先のことで、この間の資金負担は並の会社ではとても耐えられるものではありません。現在、受注出来ている数はキャンセル可能な条件も含めて四百七機ということですが、採算を取るためには最低七百、あるいは千機ほどの販売が必要だそうです。会社関係者はその数倍の販売を期待しているようですが、この分野での競争も決して楽ではないようですが、成功を祈りたいものです。
産業には様々な種類があり、それぞれが社会のニーズにより存在するわけですが、わが国の国力、特に国民の生活を守る労働市場の充実のためには、裾野の広い有力製造業の発展が不可欠のように思います。
「MRJ」の大空への飛躍が、わが国の製造業の充実への飛躍に繋がってくれることを願っています。

( 2015.11.14 )
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悲しみの連鎖 ・ 小さな小さな物語 ( 798 )

2016-04-03 16:19:58 | 小さな小さな物語 第十四部
フランスのパリで凄惨なテロ事件が発生しました。
つい先日のロシア航空機の事故もテロとの判断が強まっていますが、再びこの種の事件が多発していくのでしょうか。
一般市民をターゲットにしたテロ事件は、いくら万全の防備体制を敷いても完全に防ぐことはなかなか難しいと思われます。今回のフランスの場合は、パリという国際都市のしかも中心街に近い辺りでの事件ですが、それでもなお、未然に防ぐことは出来なかったわけです。これが、地方の小都市や田園地方であれば、見知らぬ人を見つけ易いとしても、防備はさらに難しく、被害はやはり小さくはないでしょう。
そう考えると、何とも悲しく無力感を感じてしまいます。

わが国においても、この種のテロの発生は十分懸念されると、専門家といわれる方々の多くがコメントしています。
国際化ということであれば、わが国も欧米諸国ほどではないとしても、人の行き来は少なくなく、他国との関係においても、全く摩擦が無いわけではありません。わが国の銃器統制は相当厳しく、今回のような銃乱射という事件は起こりにくいようですが、爆発物となれば、発生を押さえ込むことは難しいそうです。というのは、ごく普通に市販されている薬品や肥料からでも、相当破壊力のある爆発物を作り出すことは、それほど専門的な知識を要するものではないらしいのです。
それに、テロ事件といえば、ついつい外国人による事件を連想しがちですが、私たちの国民によるテロと表現されるような悲惨な大事件を、すでに経験済みですし、そこまでいかなくとも、全く利害関係のない人が、無差別に殺傷されるという事件は、毎年のように発生しています。

今回のパリのような大規模テロに対して、さらに厳しい防御体制が敷かれ、あるいは、犯行組織と目される集団に対して空爆などが強化されるかもしれません。
結局、暴力に対しては暴力でしか対抗することが出来ず、受けた悲しみは、悲しみを与えることによってしか気持ちを鎮めることが出来ないのかもしれません。
かつて、非暴力主義によって国家の独立を果たしたという話も伝えられており、多くの人がそれらの伝記や記事を読んでいるはずです。しかし、残念ながら、現在の地球上のいずれにおいても、全くの非暴力で国家を運営しているという例を私は知りません。平和で安全性が高く、人々の性質は温和で人懐っこく・・・、などと紹介される国家であっても、その体制を維持する為には、強力な警察権力や軍隊を有しているというのが実態のように思うのです。

私たちは、結局は、常に何かと争っていなければならない存在なのでしょうか。
幸いわが国の国民のかなりの部分の人が、贅沢さえ言わなければ飢えの心配はなく、我がままさえ言わなければ自由で安全な生活が守られています。しかしその陰には、多くの人々の懸命の働きや、危険と対峙してくれている人々がいてくれることは明快な事実です。
国家間の軋轢や、民族や文化や伝統などの違いは、長い歴史によって醸成されたものでしょうから、いくら努力を払っても、簡単に霧消させることは出来ないものだと、つくづく感じるようになりました。
せめて、多くの傘に護られて、まずまず平穏な日々を得ている身としましては、「悲しみを悲しみを与えることによって」解決させるような生き方をしないように心がけたいと思っています。

( 2015.11.17 )
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