ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

パブリック・ヘルス(みんなの健康)のために (2)

2011-05-04 10:21:38 | 健康と社会
造血幹細胞の事前採取と保存

 このような状況の中、3月25日に虎の門病院の谷口修一医師は、万が一作業員が高レベルの被爆をした時の治療に備えて、自分の造血幹細胞を事前に採取することを提唱しました。また、細胞採取にあたっては通常は5日間かかりますが、未承認薬を用いることで、短期間で用意ができると提案しました。
被曝量が500ミリシーベルを超えるとさまざまな臓器に障害が起こり始めるといいます。特に血液を作る機能は失われやすいので、その細胞を移植するという治療がとられます。ただ他の人の細胞を移植すると拒絶反応の心配があります。そこであらかじめ本人の細胞を採っておいて保存し、高レベルの被爆をして移植が必要となるリスクに備えるというのが、今回提唱された方法です。これは谷口プロジェクトと呼ばれています。
谷口医師は急遽首相官邸に呼ばれ、虎の門病院は原発作業者の自己幹細胞事前採取の体制を整えていることを報告し、仙石官房副長官から未承認薬を使用する際の全面的支援の約束をとりつけました。そして3月29日には虎の門病院にて記者会見をしました。
しかしその直後、原子力安全委員会と放射線医学総合研究所の専門家への二度にわたる照会(3月25日、3月29日)の結果、政府は現時点では自己幹細胞事前採取は必要ないと表明しました。日本学術会議東日本大震災対策委員会も4月25日に、「(事前採取は)不要かつ不適切」と発表しました。この方針は、5月1日現在に至るまで変わっていません。不必要論の背景は、1.移植するほどの危険なところで作業することはない、2.国民のコンセンサスがない、3.採取そのものにリスクが伴う、といったものです。

国内外で高まる関心

 この原発作業員の健康リスク管理としての自己造血幹細胞事前採取の提案に関する論文は、4月15日にイギリスの権威ある医学雑誌ランセットのオンライン版に、提出してから異例の速さで受理、掲載されました。それを受けて、アメリカではニューヨーク・タイムス、サイエンス、タイム誌、フランスではル・モンド、ドイツや中国や韓国でも新聞雑誌等で取り上げられました。
このような高い関心の背景には、世界的に見て放射能の被爆に備えて造血幹細胞を事前に採取した例が未だないことが挙げられます。各誌ともこの方法に対する賛否のスタンスは少しずつ違いますが、総じて、専門家の意見を引用しつつ、実施に当たっては不確実な要素も多いけれど、方法として考慮に値するといったような論調が展開されています。
 日本でも、新聞や雑誌で取り上げられるようになり、原発作業員の被曝の危険性への対処としてどのような方法なのか、現在政府や東電がどのような対応をしているのかといったことが紹介されています。
政府はこれまでのところ、幹細胞の採取は必要ないという態度を続けています。高レベルの放射能に被曝するほど危険な所には行かせないからだといいます。しかし、原子力発電は安全だと言われてきたのですが、今回予測を超えたことが起こって事故になりました。谷口氏らは、予測できない危険に対して警戒して準備をしておくことは必要で、医療専門職として正しいと信ずる最善のことをしたいという気持ちでこの提案をしているといいます。
谷口プロジェクトでは、ホームページを設け、内外のこのプロジェクトに対する報道や原発作業員の健康に関する情報を刻々と知らせています。また最近では、一般の方にも理解しやすいように、平易な言葉での解説もホームページに載せています。さらにこの方法の危険性と利益とに関する情報を作業員の方に分かりやすく伝え、その上で本人の希望を聞くというインフォームド・コンセントの準備もしています。透明性と説明責任が重要だと考えているからです。それは、日本学術会議に対して、公開討論会を呼びかけているところにも表れています。

「獅子のような心を持つ力ある者」

 311以降のボストンでは、週末になると至る所で日本を支援するチャリティ・コンサートが開かれています。今日5月1日には、私の住んでいるチェスナット・ヒルという町にあるユダヤ教の寺院、テンプル・エメスで行われました。この辺りは、第二次世界大戦中にリトアニア領事の杉原千畝氏によるビザ発給で、ナチス・ドイツから難を逃れた方々やその子孫の方々がたくさん住んでいらっしゃいます。
コンサートの始めに、ラバイ(ユダヤ教の指導者)は杉原氏に言及し、「彼は6,000人のユダヤ人の命を助けてくれました。その子孫が今や4万人近くになっています。今度は私たちが日本人を助ける番です」とおっしゃっていました。第二次大戦中の日本はドイツと同盟国であり、杉原氏は外務省から「ユダヤ人難民にビザを発行してはならない」との回訓を受けていました。しかし彼は、こうした政府の命令に反して、自らの信念であったヒューマニズムと博愛主義を貫き、ユダヤ人にビザを発行してきたのです。テンプル・エメスには杉原氏を讃える顕彰碑があり、「獅子のような心を持つ力ある者」という碑銘が刻まれています。杉原氏のなしてきたことは、私にとって幹細胞事前採取を提唱する医療者たちの姿と重なりました。
人道的な立場をとり、専門職としての責任を感じていたとしても、政府の反対することを推し進めることに逡巡があったことは想像に難くありません。この苦しい心の内は、杉原氏自身も手記で書いていますし、通説によれば彼はこの件が元で、外務省から辞職に追い込まれています。幹細胞採取を勧める医療者たちも同じです。彼らのメイル交換の中からも、制裁を懸念する気持ちがうかがえました。
さらに言えば、現行の政策に反対の論陣を張っている、リハビリテーション診療報酬制限撤廃を訴えたり、ポリオの不活化ワクチンを推進したりする医療者や患者たちも、同様の不安な思いを持っているといいます。それでも彼ら/彼女らは、自らが正しいと思った道を、「獅子のような心を持つ力」によって進んでいっています。
 
医療ガバナンスとパブリック・ヘルス

 近年、医療専門職たちが、政策や制度に対して意見を表明したり、異議申し立てをしたりしている様子がいろいろな場所で見うけられます。目の前の患者を助けるためには、社会全体の仕組みが整ってゆくことが必要と考え、実際に行動を起こしているのです。
また、患者の側も自分たちの望む医療、医療政策、医学研究の在り方を明確に訴え、行政や医療者を動かそうとしています。こうした医療専門職や患者の動きは、みんなの健康をみんなで守るという、パブリック・ヘルスを推し進めるムーブメントなのではないかと思われます。
このムーブメントには、哲学や宗教学や生命倫理学などの人文科学系研究者、経済学や政治学や社会学や人類学などの社会科学系研究者も入ってくるでしょう。医療専門職と患者と人文・社会系研究者とは、従来はそれほど協働することはなかったかもしれません。しかし互いの分野を知り尊重し合いながら、みんなが良く生きられるための社会を作り上げてゆこうとしています。こうした動きは、医療や健康に関することを関係者みんなで話し合い、共通の目標を立てて実現しようとする医療ガバナンスという概念にとても近いと思われます。 
社会科学系研究者の端くれとしての私にできることのひとつは、既存の政策や制度を変えてゆこうとする医療専門職や患者の声を聴き取り、社会的な意味づけをして、文字に書いて公なものにする(パブリッシュする、刊行する)ことだと思います。これが、私が参画(コミットメント)できるパブリック・ヘルスの形なのではないか。ユダヤの言葉イディシュで歌われるコーラスを聞きながら、そう考えました。


朝日新聞(原発作業員の検査)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104110626.html

産経ニュース(原発作業員の年間被曝量上限撤廃)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110428/dst11042802000002-n1.htm

MRIC (谷口修一「なんとしても原発作業員は守らねばならない」3月25日)
http://medg.jp/mt/2011/03/vol85.html

日本学術会議の自己造血幹細胞事前採取に関する見解
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/shinsai/pdf/housya-k0425.pdf

作業員の安全管理に関するランセットの記事
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2811%2960519-9/fulltext

谷口プロジェクトのホームページ
http://www.savefukushima50.org/

杉原千畝の手記
http://www.chiunesugihara100.com/visa-kotob.htm

テンプル・エメスの杉原千畝の記念碑
http://www.templeemeth.org/AboutUs/InsideOurWalls/SugiharaMemorialGarden/tabid/167/Default.aspx

2 コメント

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JCO (木村雅英)
2011-05-25 21:26:04
いつも細田様の記事を興味深く拝見しています。今回は「幹細胞事前採取」について共感しました。日本学術会議が早くに不必要と発表したことに反発していましたが、その前に原子力安全委員会と放射線医学総合研究所の専門家が否定していたのでしょうか。厚労省の労働安全担当も医師の意見が分かれている、と逃げているように見えました。もっとも、現在の作業労働者の状況がもしかしたら「幹細胞事前採取」どころではないのかも知れないと心配していますが…。
なお、JOCはJCOの間違いなので訂正していただいた方がよいと思います。以下にウィキペディアから引用します。
東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年に茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)。死者2名と667名の被曝者を出した。
ありがとうございます (細田満和子)
2011-05-27 02:11:42
想定外のことが起きるからこそ、リスク管理は重要だと思います。

チェルノブイリの作業員の、甚大な健康被害と若すぎる死の映像があります。

「サクリファイス - 犠牲者ー事故処理作業者(リクビダートル)の知られざる現
実」 24:00 - 2 年前

http://video.google.com/videoplay?docid=-6601369124230620869#

放射性物質、放射線の危険性を全く知らされずに労働者が事故処理に駆り出され、作業したため、強い放射線を浴び、放射性物質を体の中に取り込んでしまいました。日本でこのようなことが起きないよう、また事前に何か方法があるのならそれをできるようにしてほしいと思います。

また、略語のタイプミスをご指摘くださいましてありがとうございます。訂正いたしました。

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