習作の貯蔵庫としての

自分の楽しみのために書き散らかした愚作を保管しておくための自己満足的格納庫ですが、もし感想をいただけたら嬉しく存じます。

声なき声のうつろひは、時の深みのレクイエム

2014-02-11 14:21:31 | 音楽
 これは私だけではなくけっこう多いと思うが、佐村河内守という名前を最初に見たときには、「佐村河内」という名字に、「守」という名前だとはゆめゆめ思わず(※1)、「佐村」が名字で、「河内守」という官名を名乗っているのだと思い込んでしまった。
 大岡越前守、とか、柳沢出羽守とかのような(※2)。

 21世紀の世の中で、何をそんなアホな、って話だが(笑)。


 このたびの、この「佐村河内騒動」ーすなわちろう者の作曲家、現代のベートーヴェンとしてもてはやされていた「作曲家」の佐村河内守氏が、実は自分では作曲しておらず他の人にゴーストライターをしてもらっていた、そればかりか、実はろう者でもなかった?という騒動ーを見ていると、いろいろなことを思うわけだが、まあ、大新聞やキー局から週刊誌に至るまでのメディアの「てのひら返し」の変わり身の早さ、または無節操さはいつものことだからいいとして。
 それよりは、やはりクラシックや現代音楽というのは、「ろう者の作曲家」、「全盲のピアニスト」のような物語性あるフレーズをつけないと売れないんだなあ、大変だなあ、というか、そんな「物語」を付加することがすっかりクセになっちゃっているんだなあ、というような感想が一つ。そして、われわれ受容する側も、実は音楽それ自体じゃなくて、そんな物語のほうを受容しているんだよなあという、リスナーの一人としての自戒をこめた感想が一つ。

 改めて考えれば、音楽において大切なのは音楽それそのもののはずであって、本当のろう者が作っていようと駄作なら駄作、ゴーストライターが作っていようと傑作なら傑作。のはずである(※3)。
 が、今回の「佐村河内騒動」においてはー少なくともワイドショーや週刊誌においてはーその問題の作品が現代音楽として純粋にすぐれた作品なのかそうでないのかという視座はほとんどないように思う。佐村河内氏がいかにインチキなうさんくさい人物であるかというてのひら返しの個人攻撃はあっても、じゃあ作品そのものの価値は結局どうなのよという問われ方は皆無に近いように見える。

 まあ、それはしかたなかろう。
 最初からみんな、「音」ではなく、「物語」のほうにしか興味はないのだから。

 そして、前述の通り、クラシックや現代音楽(だけではないが)の世界において、プロモーションで重視されるのは、ビジュアルと物語である。それが現実である。
 女性演奏家は美人でなければいけないし、神童演奏家は美少年・美少女でなければいけない。もし技術が同じであれば、チケットやディスクが売れそうなほうをプロモートするのが当然。
 なるほど、西本智実さんの指揮姿は宝塚トップのごとく颯爽としてかっこいいし、牛田智大少年はショタコンでなくとも誰もが魅了されること請け合いのかわいさである。だが、もし彼らが同じ技量を持っていたとしても、ルックスがあんなふうでなかったら、レコードメーカーや音楽プロモート事務所は、彼らを抜擢したのだろうか(※4)。
 あるいは、かの全盲のピアニストが健常者だったら、難聴のピアニストが健常者だったら。あんなふうにたびたびテレビのドキュメンタリーで取り上げられCDが売れたりはしただろうか(※5)。
 古典よりもっとマニアックで売れない現代音楽では、佐村河内氏よりずっと以前から、細川俊夫という広島出身の日本の現代音楽の第一人者が、ヒロシマをテーマにした作品をいくつも発表しているのに、そちらが一般マスコミで話題に取り上げられたことはほとんどないではないか(※6)。・・・


 ・・・とエラソーなことを書きつつ、実は音楽ファンみんな、多かれ少なかれ同じ穴のムジーカで、各人程度の差こそあれ、演奏者のルックスや背後の物語をひっくるめて音楽を選択し嗜好しているんだけどね。
 コルトレーンファンは彼の出す音だけでなく、彼の言動・思想に傾倒し、矢沢ファンは彼の人生観・人生哲学に共鳴し、もちろんアイドルファンもロックファンも「好き」の要素の半分近くないし半分以上は見た目であり。
 クラシックだって、「美人ソリスト」がその容貌からデビューを勝ち取り男性固定ファンを勝ち取り、デビュー年齢が若ければ若いほどプロモーターに喜ばれたり、逆に高齢の「巨匠」ほどチケットの額が高騰したりと、音そのもの以外の要素が何かとビジネスを左右するものである。

 たしかに音楽の価値は音そのもののはずであって、それ以外の夾雑物要素で評価されるのは本来のありようではない。
 が、ものごころついた頃から、われわれみんな、音以外の要素もひっくるめて好きになったり嫌いになったりするのが当たり前になっているのだし、警鐘は警鐘として、しかし、あまり躍起になって音以外の評価要素を排除しようとしなくてもいいんじゃないのかな。うん。(←これは思考ストップのイージーな逃げ)



(※1)
 だいたい6音節の名字というのは、非常に珍しいものね。5音節なら、若林とか柳沢とか山ノ内とか高見沢とか小笠原とか今泉とか、けっこうあるが、6音節の名字というと、歌手及びキックボクサーの小比類巻ぐらいしか思い出せない。あ、あと、たしか昔、「熊埜御堂(くまのみどう)」さんという名字の人に会ったことがあったな。会った場所は長野県だか群馬県だかだったが、もともとは九州の名字だったらしい。
7音節だと、そのまんま東こと東国原(ひがしこくばる)英夫と、昔の阪神のピッチャーで源五郎丸という選手がいたのと、昔の『日曜洋画劇場』(1966~)のスタッフクレジットで、音響担当の「東上別府」さんという名前を見た記憶がある。たぶん「とうじょうべっぷ」と読むんだろう。この3名が私の見知った限り、ひらがなベースで最長の苗字だと思う。
 こういう長い名字とか画数の多い名字の人って、試験の時なんか、「中」さんや「北」さんや「山口」さんや「川口」さんに比べて不利なんじゃないの?・・・なんて話を、昔、「纐纈(こうけつ)」さんという友人と話したことがある(笑)。
 ちなみに、実在しない人物としては、「鴛鴦鸚哥丸鬱男(えんおういんこまる・うつお)」という人名が『亀有』51巻に出てきている(名前だけで顔は出てこないが)。名字が漢字で5文字、ひらがなで9音節・・・!画数は・・・もはや数えたくない(笑)!


(※2)
 この種の官名というのもなかなか興味深くて、ウンチクを垂れ流し出すとキリがないジャンルの一つである。
 大岡忠相は越前守だが、もちろん町奉行の忠相は福井藩主ではなく、福井藩は松平家である。松平容保といえば、会津の殿様だが、官名は全く別の場所で肥後守。実際の肥後熊本の殿様である細川は、肥後じゃなく越中守を名乗っていたりする。という具合に、名と実がまるで食い違っているから、ややこしい。ややこしいからおもしろい(そりゃまあ、律令制の国司と中世以降の守護大名・戦国大名・藩主はまったく別の概念だからね)。
 律令制が有名無実化した後も、長年にわたって官名が公認・非公認ともに使われつづけていたというのは、やはり日本人が「下の名前」を公式の場ではみだりに名乗ったり呼んだりしない文化だったことと無関係ではないのだろう。
 これは小谷野敦氏がよく書いていることだが、史実では、大河ドラマなどの映像作品のように、「信長様」、「何じゃ、家康殿」なんて、実名を口に出して呼んだりはしない。教科書に載っている実名、すなわち諱(いみな)は、署名捺印するときぐらいにしか使わないで、普段は公式の場では「能登守」、「兵部少輔」などの官名で呼び合っていた。プライベートな場で家族や友人が呼ぶときには「伊右衛門」、「作次郎」のような通称名(漢民族でいう「字(あざな)」)を使っていた。
 江戸の住宅地図(?)なんか見ていると、「松平伊豆」とか「水野越前」とかって官名で書かれていて、実名は使われていない(まあ、官名なら世襲されるから代替わりしても書き換える必要がないという利便性のためもあろうか)。
 歴史人物の多くは実名が教科書スタンダードだから、ドラマでも映画でも、誰のことなのかわかりやすくするために吉宗様だ綱吉様だと、作中で実名を呼ばせてしまっているが、本当はおかしい。大河ドラマで「時代考証」なんていって名前を貸している学者は、いったい何を「考証」しているのだろう?だいたい、中高年の役者や三枚目の役者はちゃんと月代(さかやき)を剃った姿で出てくるのに、ジャニーズなどの若手二枚目は必ず総髪というのもおかしいだろうに。総髪なんて、幕末期を除けば一部の医者ぐらいしかいないはずだが。
 と、それはさておき、項羽や蒋介石が実名ではなく字(あざな)で知られているのと同じく、今年の大河の黒田官兵衛なんて、実名の「黒田孝高」はほとんど知られず、通称名の「官兵衛」と法号の「如水」が有名だから、作中でもリアルタイム通り「官兵衛」だし、坂本龍馬も実名はほとんど知られていないから、教科書でも通称名で「龍馬」と、リアルタイムの呼称で呼ばれているのには、何だかほっとする(龍馬も長生きして明治政府に残っていたら、「西郷吉之助」が「西郷隆盛」と呼ばれるようになったのと同様、「坂本直柔」という実名のほうで今日に伝わったかもしれない)。
 赤穂ものの人物なんて、浅野長矩じゃなく浅野内匠頭、大石良雄じゃなく大石内蔵助、吉良義央じゃなく吉良上野介、堀部武庸(たけつね)じゃなく堀部安兵衛、片岡高房じゃなく片岡源五右衛門、大高忠雄じゃなく大高源吾と、全員ちゃんとリアルタイム通りに官名または通称名で呼ばれていて、実にすがすがしい。みんな教科書的な人物じゃないから可能なんだろうが、みんながみんな赤穂ものみたいだったらいいのにね。
 ああ、そういえば、宮本武蔵も実はあれ官名なんだよね。武蔵守を自称していたという。日本人の多くは、本名が武蔵(たけぞう)で、それをムサシと読み方を変えたと思っているだろうが、それは吉川英治の創作。実際の実名は宮本玄信(または新免玄信)だが、そんなのほとんど知られていない。やはり、これも赤穂ものの人物たちと同じく、教科書人名ではないがゆえに、芝居・講談などを通じてリアルタイムの呼称のほうがポピュラリティーを得たという事例だろう。
 そうそう。講談系といえば、原田宗輔ならぬ原田甲斐や伊達宗勝ならぬ伊達兵部が活躍する『樅の木は残った』なんかも、赤穂ものと同様、教科書より講談系から来た知識に従って、リアルタイムの呼称たる官職名がベースになっている作品だあね。


(※3)
 作曲者が障害者だったり、その父親がノーベル賞作家だったりしようとしまいと、作品として傑作なら傑作、駄作なら駄作なのである。


(※4)
 個人的にはさほど好きな演奏家ではないが、五嶋みどりというヴァイオリニストなどは、ルックス面でのアドバンテージがまったくゼロ・・・というより、著しくマイナスというハンデを持っていながら、アメリカで誰もが認めるトップソリストになったのだから、こういう人は、ハンデをはね返すだけの実力があるんだなと感嘆するに値しよう。
 もっとも、五嶋みどり氏の場合は、あくまでアメリカでの成功であって、一般にクラシックの「本場」とされている欧州ではアメリカにおいてほどの名声は得られていないから、何となく個人的には欧州で著名な武満徹や小沢征爾、内田光子に比べて、ちょっと偏見を持ってしまう。


(※5)
 ただし、別に筆者は辻井伸行氏にケチをつけたいわけではない。
 たしかに音楽専門誌ではない一般マスコミで幾度も辻井氏が取り上げられ「チヤホヤ」されたのは演奏内容のためではなく、「全盲の」ピアニストという物語ゆえだったろう。
 が、将来的には、往年の名オルガニスト、ヘルムート・ヴァルヒャのように、あるいは非クラシックでいうと、ローランド・カークやスティーヴィー・ワンダーのように、障害の有無に関係なく、音楽家として音楽シーンに欠くべからざる偉大な存在になるかもしれない。ならないかもしれないけど。


(※6)
 佐村河内氏がテレビでもてはやされるよりずっと以前から広島をテーマにした現代音楽を作曲し、その分野では内外で高い評価を得てきたにも関わらず、メインストリームマスコミにおいては、佐村河内氏の毀誉褒貶をよそに一度も話題に触れられたことのない細川氏は、この佐村河内騒動を、どんな思いで見ているのだろうか。
 ちなみに、佐村河内氏の作品のことは私は知らないが、細川俊夫の作品は、キャッチーな心地よさとは対極の前衛作品なので万人向けではないものの、声楽曲、とくに児童合唱のための声楽曲は、とてもユニークな実験的作品で、聴いてみて損はないと思う。
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