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この環境を「当たり前」と思う事のないように、日々の小さな驚きや感動を綴っていきます。

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アウシュビッツ収容所で何があったか 1

2011-07-16 06:35:37 | 旅行=ヨーロッパ

注)人によって気分が悪くなってしまう内容が含まれています。ご注意ください。

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たった70年前に、ここポーランドのアウシュビッツで
何が起きたのか。
歴史の流れはウィキペディアなどに譲るとして、
ここに送られた人が実際に体験したことについて
私が教えてもらったほんの一部を紹介したいと思います。


1939年ドイツがポーランドに侵攻。
そのときドイツに反撃した「ポーランド政治犯」728人を収容する場所として
アウシュビッツが選ばれた。

当時のドイツの考えを象徴する言葉。



「ドイツ国家を解放しなくてはならない。
 ポーランド人やロシア人、ユダヤ人やジプシー(ロマ人)達から」

「我ら優れた民族だけで国家を立て直す。」
この考えがヨーロッパ中に住んでいた、主にユダヤ人に向けられ、
何百キロも離れた土地から、強制的にこの地に連れてこられた。

アウシュビッツ収容所が閉鎖された1945年までに
この地に強制的に送られた人の数。 130万人。
うちユダヤ人が110万人。ポーランド人1万5千人。
ジプシー(ロマ人)が2万人。

ほかにもドイツは「また生まれてきては可哀相」という大義名分で
知的障害者や同性愛者も収容所へ送った。
これを「安楽死計画」と名づけて。

アウシュビッツに送られた人で、生きてここを出ることが出来たのは
たったの1割。
9割にあたる110万人がここで命を落とした。



ユダヤ人にドイツは「東へ行けば新しい仕事、新しい生活が待っている」と説明した。
大きな不安と、けれどわずかな希望にすがるように、
それぞれの大切な家財道具を持ち寄る人たち。
これもドイツの狙いの一つだった。






この計画が疑われないよう、ユダヤ人達がスムーズに貨車に乗り込むよう
ドイツは色んな細工をした。
一例に、列車の切符は往復切符として安心させている。




ひとつの貨車には100人から150人が押し込まれ、ぎゅうぎゅう詰めの中、
パン1個しか与えられず、時には1週間かけて、この地に送られた。
移送の途中で命を落とした者も多かったが、その人たちは130万人という数字に
含められていない。




到着してようやく下りたプラットホーム。
ここが何処なのか、何が始まるのか、何の説明もなく、ただ下ろされる。
背後には自分達がこの後送られることになるガス室の煙突が見えるが
誰も知る由もない。




家族はばらばらに引き離され、男性と女性に分けられる。
そこへドイツ人医師がやってくる。



外見と顔色を見ただけで、「選別」が行われた。
「働けそうだ」とみなされた男だけが収容所へ送られた。
全体の3割。
この時の医師が指差した方向で人の生死が決められた。
女性、子供、老人、働けなさそうな男性が直接送られた先、
それがガス室だった。
高さ120cmの所に棒を渡し、背がそれを越えない子供は
ガス室へ送られるので、生き延びるために必死にみな首を伸ばした。


ここで「選別」作業を淡々と行ったドイツ人医師は
凶悪で過激な人種差別主義者ではなく、
一般的に大変優秀とされていた人達だった事に注目したい。


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ユダヤ人達の「わずかな希望」がつまった所持品は
全てこのホームで没収された。




ただし、大事な荷物をなかなか手放さない人もいたため、
後日持ち主に戻す時に分かりやすいように、と大きな文字で名前をかかせている。



お金になる品物はそのまま貨車に積まれて、ベルリンなどに運ばれた。

現在の収容所祈念館には残された遺留品が展示してある。


メガネ40キロ
くし 4万9,000本






子供からの没収品



8万足の靴
うず高く積み上げられ、ハシゴが必要なほど。



見学者は「こんなにたくさんの人が犠牲に・・」と言葉を詰まらせる。
ガイドは言った。
「皆さんの目の前のこの1足が、『もしかしたら最愛の祖母の物かも
しれない・・』、と考えてしまうユダヤ人の気持ちを察してみて下さい」。



ニベアクリーム
現在でも使われる製品がそこにはあった。
遠い昔の出来事ではない。




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「働けない」と判断された人たちには、「これからシャワーを浴びる」と説明された。
不安で動けなくなっている人達に、
「シャワーが終わって自分の服を取り間違えないよう、
ハンガーの番号を覚えておくよう」、指示までしている。


裸でガス室へ追い立てられる人達



こうした「作業」を監督する人間を、ドイツは殺されていく人達と同じ
ユダヤ人の中から選んだ。
「良心を殺して作業する」ことでようやく自分に与えられる命だった。
しかし、口封じのため、監視は一定期間ごとに殺され、補充された。
これがドイツ側が作り上げた、直接自分たちが手を下さなくても、
「作業」が行われるシステムだった。

しかし、中には後世にこの事実を残そうと命がけで禁止されている写真撮影を
行ったユダヤ人監視もいた。
上の写真はその1枚でネガフィルムは歯磨き粉のチューブの中に隠されて、
奇跡的に収容所からの持ち出しに成功したもの。
戦争犯罪を立証する大事な一枚となった。



シャワー室に見せかけたガス室に、多いときは数百人を入れ、ドアが締められる。
天井から水が出ることはなく、代わりに毒ガス「チクロンB」が投げ込まれた。



チクロンBは殺虫剤として使われていたもので、
ドイツのハンブルグにある会社から大量購入した。
こうした企業は実際の使用目的を知っていながら、
取引を続け、一切の証拠が残らないよう、
請求書などには漠然とした表現が使われている。


中の数百人が窒息死するまで20分。
その間、トラックやバイクのエンジンをふかし続けて、うめき声を掻き消した。

(ガス室内部も見学できるようになっているが、
 この時の肌から感じる重たい空気は言葉にできない。)



床から立ち上るガスから必死に上へ上へと逃れようとした人の死体は、
山のような形となって残された、という。




20分後、安全マスクをつけた同胞であるユダヤ人労働隊が死体を搬出した。

そして髪の毛を刈って20キロの袋詰めにし、繊維工場などに運び、
糸や靴下などに加工した。
また金歯を抜いて金塊にした。
つかえるものはつかう。 「モノ」としての扱い。



死体は焼却炉で焼かれた。



しかし殺される人数があまりに多くて焼却に間に合わなくなると、
野原で焼かれた。



この写真も監視が離れた木々の隙間から、命がけでシャッターを切ったもの。


さらにアウシュビッツ収容所だけで足りなくなると、
3キロ離れたビルケナウに5倍の大きさの「殺人工場」を作った。
「この門をくぐったら、出口は煙突だけ」だった。



1945年解放が迫り、ドイツは証拠隠滅のためガス室や収容棟を全て爆破させたため、
現在は広大な土地だけが広がる。




(なかなか進みません。
言葉を選び、書いては直し、の繰り返し。
読んでくれた人の気分を落ち込ませることも分かっているけれど、
絶対知っておかなきゃいけないこと。
今の日本人は特に。
パート3まで続く予定です。)
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