【ロマ書12章1₋21】
東大教授大塚久雄氏は、無教会派のクリスチャンで経済学部長はプロテスタントの隅谷 三喜男(すみや みきお)でした。「人間の条件」のモレルでは?と言われた方です。
中国から孔子の教え儒教が入り、徳川幕府、明治以降の教育勅語と明治憲法に対して影響力を及ぼしました。内村鑑三は天皇の写真に頭を下げないという理由により不敬罪で一高の教師を辞めさせられましたが、その弟子南原繁、矢内原忠雄は東大総長となりました。植民地政策や南京大逆説を批判した矢内原は一時、東大を追われましたが、子息の一人は栃木の作新学院の院長をされました。
内村自身は天皇に聖書講義をしました。
理にかなった霊的礼拝とは、神がご自身の御子を我々のため捧げてくださり、御霊を住まわせて神の宮とさせてくださったので、その神に自分を宮としてささげさせていただくことです。
新しさとは日々、上から、すなわち神から、神の視点から自分を確認することです。心は私たちの至聖所に住まわれる聖霊と現実との通路です。神社の参道では真ん中は神が通られるので、人間はそこを開けて歩くことになっているそうです。心に自我が居座り、道を妨害すると、主の通り道を閉ざしてしまいます。
ですから、日々思いを新たにしていただき、私たちは主の尊い血をもって罪とサタンから贖いだして、聖霊を住まわせて神の子にしていただいたことを感謝するのです。この世あるいは他者の目にさらされる自分を見ると風に吹かれた葦のように、ゆりうごかされ、不安になります。ですから神の宮としてのセルフイメージが大切です。
コリント第二の手紙6章16節には「私は彼らの間に住み、また歩む」とあります。
宮はそこに住まわれる創造主の故に尊いのであって、被造物である建物を偶像化する訳にはゆきません。
アイという小さな町を攻めたイスラエルが何度も敗北したのは、敵が強かったからでなくイスラエル自身の内側に偶像礼拝があり、それを通して悪霊が神の川の流れを妨害したからでありました。
共に歩まれる主に心を向け、その力にゆだねた時に勝利がもたらされました。
私たちの至聖所である霊に住まわれる神は、心という聖所を通って庭という体に現れます。潜在的な霊の次元が生活の見える世界に現れるのが奉仕です。言葉と働きのなかで、あるいは愛の奉仕のなかで働かれるのは主ご自身です。その主の業に自分をゆだねてゆきましょう。
すべての罪を赦され、永遠のいのちを無償で与えられ、うちに無尽蔵の宝である聖霊様を宿していることを再確認することによって、私たちは自分を超えたアガペ―の愛に生きることが可能になります。
明け渡された心の内から主ご自身が働かれてご自身を現わしてくださるからです。
悔い砕かれた心からいのちの水が流れ出します。
そして個々のクリスチャンだけでなく、教会自体が神の宮であり、一致の心と奉仕を通して神はご自身の愛を現わされます。
自分を第一だと思いあがると、ねたみや不和が生じます。
ですから、お互いの中に御霊の内住を認め尊敬し、御霊の力の現われであるそれぞれの賜物を大切にしなければなりません。主に聴き人に聞きながら、お互いに学ぶことが重要です。
教会の主はイエス様であり父なる神そして聖霊様です。
このお方に目を向けて霊への油注ぎ、心の清めの油注ぎ、体や実生活への力の油注ぎをいただきましょう。
内にいます神は生活のすべてに歩み出されて祝福と栄光を現わされます。
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