【ロマ書6章1-14】
第102代内閣総理大臣に石破茂氏が選ばれました。
曾祖父の金森通倫(みちとも)牧師は熊本バンドで導かれ、後に同志社で新島襄からバプテスマを受けたました。祖父の金森太郎氏は徳島県知事もされたそう、石破総理は4代目クリスチャンとのことです。
教会学校の教師や家庭教師の経験もあり、国際朝祷会に出席され奨励もされているそうです。
防衛大臣もされて国防の重要性を説いていることでは、多くのクリスチャンから批判されて悲しいとも語られました。
マックス・ウェーバーの心情倫理と責任倫理の立場、すなわち心情的には山上の垂訓の平和主義に立ちつつも、結果に責任を持たなければならない政治においては戦争を避けるための抑止力も必要であると考えておられるようです。
武力闘争を説く独裁国家や権力による信仰を強要する宗教世界に囲まれた中で、民主主義国家を守るためにスイスのように軍事力を維持するのか平和憲法を守って武力放棄の道を選ぶべきなのか私たちも問われています。石破さんは、自らを正しいと主張するパリサイ人よりも、罪を恥じる取税人の話に共鳴され、ご自分も過ちに陥りやすいので絶えず神から正していただいて歩みたいと述べられていました。
主は私たちの罪を負われて、私たちに代わって十字架上で罰と呪いを受けられました。永遠の神が私たちと一体化されて死なれたのです。そのことは同時に私たちも主と共に十字架で死んだのだとパウロは語ります。
罪という重い借金が帳消しにされるのは、会社であれば倒産という手続きを取ることです。負債が全て清算されますので、借金取りとの縁が切れて自由になります。N氏は倒産によって借金の何倍もの財を受け取った経験をされました。
罪に対して死ぬとは、罪の根源であるサタンの告発から解放されることです。
ですから、主の十字架を仰いで主と共に死んでいる自分を認め、そして聖霊によって神との親しい交わりに生きる自分を思い見るのです。荒野で呪われた青銅の蛇を仰ぎ見た者が、毒から解放されたようにただ信じて頼るだけで罪人から神の子へ生まれ変わります。
神ご自身が罪との関係を断ち切って、ご自身との交わりに迎え入れてくださります。その信仰への道は全て御霊がなされるのです。
自分の力では新生することも神を愛することもできません。主の血潮と御霊の力が不可能を可能にされます。私たちは生まれつきの自力によって正しいことをなそうとしますが、まず神の子とされ、御霊のいのちと力に依って、罪に死に神に生きることが出来ます。
「国と力と栄とは限りなく汝のもなり」とあるように善い事や恵みは神に満ちていることに宗教改革者たちは気付きました。自我依存は偶像礼拝です。義の道は十字架と共に自分を誇ることをやめ、神に頼る生活に変えられることです。サウル王は自分で判断してよいものを残しました、神が依存すことを捨てるように進言したにもかかわらず。パウロは自分に益であると思ったのが実は損であったと語っています。私たちもなおも被造物に依存しようとする誘惑にさらされます。
聖霊なる神が私たちに宿っておられますから、生まれつきの被造物である自分ではなく創造主であられるこのお方に頼りましょう。十字架によって私たちの立場に立たれ、身代わりとなって共に罪に死んでくださった神は、今、多くの困難を抱える私たちの内に聖霊として活きてくださり、私たちに代わって私たちと共に活き働いておられるます。放蕩息子が父のもとに帰った時、父は最高のものを惜しげなく与えてくださいました。
このお方と交わり頼り、一瞬一瞬ゆだねる時に、聖霊は私たちの内で偉大なことをなされます。
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