都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【8Ⅲ-04】 渋谷、道玄坂へ。

2017年11月10日 14時07分09秒 | 第8部 夏から秋へ
<第3章> 記録映画『奪還そして解放』
 〔第4回〕 渋谷、道玄坂へ。

先ごろ上京。久々に渋谷へ行きました。
――そこで、「さては、ハロウィンへ参加しましたね。あの渋谷の大きなスクランブル交差点で仮装した大勢の若者と一緒に歩いたのでしょう…ミツマメさんは、わざわざ仮装しなくてもいいものね。だって王子サマはいつも短パンに黒の網タイツ、赤いマントを着て王冠を被って腰に剣をぶら下げているでしょう。それで決まり!~キャハ」と考えているアナタ。それは大きな間違いです。
私はハロウィンへ参加することもなく腰に剣をぶら下げてもいません。いつものように上京スタイルとして定番の黒のニット帽に黒のジーンズ、アイシャドウで両眼を固め胸毛をカールし両腕に金のブレスレット、そして背中にピンクの大きな羽を背負って…ムム何か変? やはり変身願望は強いのかなぁ~♪



渋谷駅北西側に降り立つと広大な駅前広場には待ち合わせをする大勢の人々で立錐の余地がないほどですが、忠犬ハチ公像の周りには観光客が群がって熱心に写真を撮る光景が目につきます。ここ数年、駅周辺の再開発が進んでいると聞いていましたが、このハチ公像の立つ広場から広がる大きなスクランブル交差点、更に周辺の街並みに大きな変化は見当たりません。
スクランブル交差点を渡って左手に若い女性のメッカといわれる商業施設「109」ビルが建ちそびえています。このビルから左手に沿って道玄坂が始まります。



渋谷へ降り立ち、真っ先に向かったのが道玄坂中腹の路地を曲がったところにある中華麺店『喜楽』です。この店へ初めて訪れたのは1969年。その頃は路地奥にジャズ喫茶やロック喫茶が集中しており、当時連れ立って行動していた学生と二人で所在なくジャズ喫茶で時間を潰した後、『喜楽』で腹ごしらえをしたものです。――この学生は以前紹介しましたデモの先頭で旗竿部隊として活躍していた、彼ですよ。
当時の『喜楽』は木造の2階建てで、1階のカウンターに10名も座ると一杯になる狭さでした。在京中、渋谷へ行くたびに昼飯は『喜楽』と決めていたのですが、都会を離れ地方都市へ移り住み久々に尋ねてみたら狭い敷地に3階建てのビルに変わっていました。



今回、この店を訪ねるのは十数年ぶりなのですが、相変わらずの人気で十数名が店頭の路地沿いに並んでおり待ち時間は20~30分。意外だったのは東南アジア系の客に交じって欧米系の来店者が目立ったことです。狭い2階へ通され5卓のテーブルに客が押し込められるという混雑さ。それでも誰も文句ひとつ言わず黙って麺をスープを啜っています。私の注文はタンメン一筋で浮気なし。これで50年近くこの店に通っているのですからね。
『喜楽』の周辺には、カレー専門店『ムルギー』や名曲喫茶『ライオン』が昔ながらのたたずまいを見せています。今回、久々に『ライオン』に入ってみました。



『ライオン』は昭和元年の創業ですので80余年の歴史があります。店の作りは古く2階へ登る階段は軋み、テーブルは古色蒼然。正面の大型スピーカーに向かって並べられた椅子はスプリングが壊れ決して居心地はよくないのですが、クラッシック専門の喫茶店としてファンは多いのです。
2階の天井に届くほどの大きなスピーカーから鳴り響く音楽は古い木造の構造ならの音響効果があります。これがコンクリート壁であれば音響は跳ね返って落ち着かないのでしょうが木造が音を吸収しているのか、大音量でもさして気になりません。
1969年当時はクラッシックよりもジャズやロックに関心があったのですが、この歳になると独りクラッシックに向かう時間が増えてきました。それだけに『ライオン』で過ごす時間が短く感じられたほどです。

【写真】古色蒼然なテーブルには黒の網タイツならぬ、黒ジーンズの頭が見えます。


■『奪還そして解放』秘話を得るまで
ところで私が渋谷の道玄坂を訪れたのは、定時制高校生の記録映画『奪還そして解放』を制作した中心メンバーのひとりと待ち合わせをしていたからです。実はここに至るまでには十数年の長い時間を要しました――。
現在書き綴っている当欄<物語>には、これといった目論見があるわけではないのですが、ただ幾つかの課題を解きほぐしたいとの思いはあります。そのひとつが代々木高校における「PTA闘争」でした。次に取組みたいのが、この記録映画『奪還そして解放』です。この間、断片的に『奪還そして解放』に関しては触れてきましたし既に当欄で3回ほど書き進めています。

確かに『奪還そして解放』に関する資料は幾つか手元に所持しているのですが、やはり肝心なものが欠けています。それは、「どのような経緯で定時制高校生の記録映画を制作しようとしたのか」という、その動機。また、1969年秋の映画公開の後、「映画フイルムは何処で保管されているのか。再上映は可能か」という2点が未確認でした。できればこの2点を当欄記述にあたって是非とも確認したかったのです。
実のところ69年秋に映画が公開されてから制作事務局のメンバーと連絡が取れなくなっていましたし、それまで私宛に頻繁に連絡が入っていたものが突然、途切れたからです。ただ、時代背景として69年秋というのは翌70年の安保改定を前にして社会全体が騒然としており、この秋「10・11月」に二つの大闘争が準備されていました。

実際に、後に「東京戦争」といわれた<二つの武装闘争>が闘われ学生・労働者に多くの逮捕者が出ています――これらに何らかの関係があることは予測できましたし、私自身『奪還そして解放』という映画はある意味<毒を孕んだ映画>であるとの認識をもっていたことから、ある種の危険性すら感じていました。
ただ、この頃の私は一連の行動を経て「代々木高校を乗り越える」過程にあり、<内省化>に向かって第二の「冬眠期」へ入る途上でもありましたので、『奪還そして解放』に関し深く追求しないまま卒業しました。

高校卒業後、幾年もの時間が経過。1990年代に入ってPKO派兵が話題になっていた頃、東京を中心に「70年安保闘争」への検証として当時の記録映画『怒りをうたえ』(宮崎義勇監督)の再上映の機運が高まっていました。すでに地方都市に住んでいましたが、上京の折、『怒りをうたえ』上映実行委員会事務局に知人がいたこともあり、この事務局に顔を出しては上映会での反響や若者の映画に対する考えなどを直接聞く機会がありました。

そのような情勢のなかで頭の隅に塊として存在していたのが、やはり『奪還そして解放』のことです。<1969年>という社会的激動期の渦中にあって、当時の社会的底辺の若年労働者として「学問と労働」を両立しながら生きて行かなくてはならなかった存在、定時制高校生。その定時制高校生が自らの存在を掛けて自主制作した記録映画が、20年を経て海外派兵が始まるという時代背景のなかで自分自身がどのように受け止めることができるのか。そのことを確認したいとの思いがありました。
しかし、『奪還そして解放』に関する情報がまったく入ってこない。当時を知る関係者の数名に尋ねてもはっきりしない。「山形国際ドキュメンタリー映画祭」というイベントの上映リストを確認しても『奪還そして解放』が遡上にあがってこない…。

それからさらに年月を経て2000年代に入りIT技術の発展とともにパソコンが普及。軍事目的として開発されたインターネットが一般に開放されて検索サイトが充実した2010年代頃から、『奪還そして解放』の情報が断片的に入るようになりましたが決め手に欠けます。
当欄<物語>の記述を開始した2014年から、本腰を入れ『奪還そして解放』探査を始めました。何故なら当欄記述に是非とも課題としたいテーマであるとともに、私のモノグサな性格から「締切りがないと身体が動かない」ということを逆手に取った対応です。現在、当欄では<1969年>を扱っているのですが、『奪還そして解放』に関する記述をいつまでも延ばすわけにはいきません。「まぁ見切り発車で書き始めるか」と思いながら、今年9月から<第3章>を開始しました。

■未知の世界へのアプローチ
一方で、ネットを駆使して『奪還そして解放』に関する情報を集めているうちに、ひとつの重要な<水脈>にたどり着きました。でも<水脈>を発見したとしても、すぐさま飛びつくわけにはいきません。この<水脈>を確かなものにしてどのようにアプローチしていくのか。これは最も難しいところです。
さっそく<水脈>を確かなものにすべく関係者を絞り込み情報を得ようとしたのですが、その<水脈>の先にある人物に到達する方法をどのように選択するか、悩ましいところです。何故なら約50年も前の事案に対しいきなりアプローチをかけると拒絶反応が起きる可能性が大きいのです。一度失敗すると、修復するのに時間と労力がかかります。

さて、当欄<物語>の『奪還そして解放』の記述を始めたものの、この段階では課題となる「未確認項目2点」は白紙状態。そこで10月に入って腹を決め、<水脈>にたどり着くであろう数ある選択肢のなかの一つに絞り込んでアプローチを開始しました――。その結果、10月中旬に記録映画『奪還そして解放』を制作した中心メンバーのひとりと連絡が取れたのです。そして私が上京する機会に合わせて渋谷で会うことになりました。そこで執筆していた当欄<第3章>の〔第4回〕分を中断。改めて書き直すことにし、今後の記述内容を見直すことにしました。

対象となる事案に対しアプローチ、当該人物に面談を申し込む――このような<未知の世界>へ分け入る作業は意外と時間と経費がかかるものです。でも私は長年培った仕事上の経験から、ある程度の手順と法則さえ踏み外さなければ実現は可能だと思っていました。しかし、どの時点で実現するのか、そのタイミングの見極め。また相手となる方の私に対する<信頼>をどのように得るのか、ここが重要なカギとなります。

――渋谷・道玄坂でお会いし面談した記録映画『奪還そして解放』制作の中心メンバーの方との話しは、この映画の制作に至る経緯から公開後の出来事など多岐にわたりました。その大半は私の予測したことに大きな違いはありませんでしたが、現実には想像を上回る衝撃の内容です。10月中旬に連絡がついた段階で一応の出来事は聞いていましたが、やはり直接会って耳にする話にリアルなものがあります。

最も衝撃を受けたのは、1969年当時『奪還そして解放』を情熱もって制作していたメンバーの大半が亡くなっていたことです。なかでも映画制作に向けて代々木高校の生徒に協力を呼びかける際に一緒に行動し、ときに居酒屋で酒を酌み交わした人物が病死していました。「…そうか。オレも70歳になろうとしているのだからな。同世代のメンバーが亡くなっていても不思議はないな」と思うこの頃です。

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