コメント
さらなる夢
(
sakura
)
2015-09-22 08:44:35
福原から旧都にもどった清盛には、新王朝の首都造営という
次の目標があったようです。宇治や奈良方面からの敵にも備えられるよう
八条・九条の地域に軍事拠点を備えた新王朝の宮都を清盛は造りたかったと
元木泰雄・高橋昌明両先生は、「平清盛の闘い」「平清盛福原の夢」の中で
推測されておられます。
平氏一門の首脳陣は九条対岸の宗盛堂付近に居住し、
その周辺に郎党の居住地を設けようとしていたようです。
実際、九条兼実は九条家領の河原付近の土地を平氏にむりやり取り上げられ、
その悲嘆を日記に記しています。
宗盛堂の位置は現地の平安京における平家邸宅図に記されています。
早速、訪ねてくださったのですね、ありがとうございました。
今日行ってきました
(
自閑
)
2015-09-21 18:44:12
sakura様のblogの通りに歩き、一瞬、ゴミ置き場?と見え、その先まで行こうとしてしまった所でした。(笑)
感謝申し上げます。
地形から水害に会いにくい場所では?と思いました。あの場所が決壊する前に3条が溢れてしまいますから。
河岸の公園では、あっちこっちでバーベキュー。天気も良かったでしたから。
自閑さま
(
sakura
)
2015-09-04 09:36:46
ご指摘ありがとうございました。
今日、清盛の死因を特定するのは難しいのでしょうが、
古くからマラリア説があるようです。
高橋昌明先生は「養和元年記」の記事から、脳神経外科の専門医の診断を仰がれ、
死因は髄膜炎じゃないか。と推測されています。
また元木泰雄先生は、マラリア説の他、インフルエンザからの肺炎とされています。
清盛死去の記事の中の清盛死因に髄膜炎と肺炎をつけ加えさせていただきます。
水薬師寺には、清盛が境内の岩井の水を浴びたとあるので、
私は清盛最期の地は西八条邸かと思っていました。
六波羅と西八条のあいだに位置するこの地で息をひきとったようです。
「平家物語」には清盛が亡くなった夜、法住寺殿の辺で2、30人が
うれしや、滝の水 鳴るは滝の水…(祝い舞の詞)を、
調子をとって歌い舞い 騒いだとあるので、
これを対岸で聞いた平家一門の人々はたまらなかったでしょうね。
yukarikoさま
(
sakura
)
2015-09-04 09:30:43
清盛は苦しい息の中で、息子や一門の人々に、
「たとえ最後の1人になっても、頼朝と戦え」と命じています。
頼朝に対する恨みは想像を絶するものがあります。
清盛は、西八条か六波羅で死んだものと
(
自閑
)
2015-09-03 18:22:12
ずっと清盛は、西八条か六波羅で亡くなったものだと思い込んで居ました。
こんど訪れようと思います。
マラリアについては、養和飢饉を調べた際、症状に高熱を発しないとのことから、髄膜炎だなあと思っていた所です。
盛者必衰の理。驕れるものも、そうでない我々も行く末は同じなのですが、登りつめた山が高い程と言う事でしょう?
清盛はさぞ悔しかった事でしょうね。
(
yukariko
)
2015-09-03 13:51:07
マラリア(現代でも早めに手当てしないと大変なのに)…突然寝付いて薬効も祈祷も甲斐なく、源氏を討つ兵馬を集めながらも死に直面し、もう死ぬだろうと悟った時の清盛の悔しさはどれほどだったでしょうか。
焼いて残った遺骨もどこに葬られたか分からないという資料さえないのが、平家滅亡時の急さ、慌ただしさ、その後の源氏方の平氏の諸将達に対する処置の惨さを余計に感じさせますね。
清盛の魂魄はこの終焉の地には留まらず、一族と共にあったでしょうか?
源氏が三代で滅ぶのをどこかで見ていたでしょうか?
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次の目標があったようです。宇治や奈良方面からの敵にも備えられるよう
八条・九条の地域に軍事拠点を備えた新王朝の宮都を清盛は造りたかったと
元木泰雄・高橋昌明両先生は、「平清盛の闘い」「平清盛福原の夢」の中で
推測されておられます。
平氏一門の首脳陣は九条対岸の宗盛堂付近に居住し、
その周辺に郎党の居住地を設けようとしていたようです。
実際、九条兼実は九条家領の河原付近の土地を平氏にむりやり取り上げられ、
その悲嘆を日記に記しています。
宗盛堂の位置は現地の平安京における平家邸宅図に記されています。
早速、訪ねてくださったのですね、ありがとうございました。
感謝申し上げます。
地形から水害に会いにくい場所では?と思いました。あの場所が決壊する前に3条が溢れてしまいますから。
河岸の公園では、あっちこっちでバーベキュー。天気も良かったでしたから。
今日、清盛の死因を特定するのは難しいのでしょうが、
古くからマラリア説があるようです。
高橋昌明先生は「養和元年記」の記事から、脳神経外科の専門医の診断を仰がれ、
死因は髄膜炎じゃないか。と推測されています。
また元木泰雄先生は、マラリア説の他、インフルエンザからの肺炎とされています。
清盛死去の記事の中の清盛死因に髄膜炎と肺炎をつけ加えさせていただきます。
水薬師寺には、清盛が境内の岩井の水を浴びたとあるので、
私は清盛最期の地は西八条邸かと思っていました。
六波羅と西八条のあいだに位置するこの地で息をひきとったようです。
「平家物語」には清盛が亡くなった夜、法住寺殿の辺で2、30人が
うれしや、滝の水 鳴るは滝の水…(祝い舞の詞)を、
調子をとって歌い舞い 騒いだとあるので、
これを対岸で聞いた平家一門の人々はたまらなかったでしょうね。
「たとえ最後の1人になっても、頼朝と戦え」と命じています。
頼朝に対する恨みは想像を絶するものがあります。
こんど訪れようと思います。
マラリアについては、養和飢饉を調べた際、症状に高熱を発しないとのことから、髄膜炎だなあと思っていた所です。
盛者必衰の理。驕れるものも、そうでない我々も行く末は同じなのですが、登りつめた山が高い程と言う事でしょう?
焼いて残った遺骨もどこに葬られたか分からないという資料さえないのが、平家滅亡時の急さ、慌ただしさ、その後の源氏方の平氏の諸将達に対する処置の惨さを余計に感じさせますね。
清盛の魂魄はこの終焉の地には留まらず、一族と共にあったでしょうか?
源氏が三代で滅ぶのをどこかで見ていたでしょうか?