コメント
 
 
 
目にしていても全く気付きませんでした! (yukariko)
2007-09-23 21:20:56
謡曲「小督」での「想夫恋」話は知っていても、ゆかりの「琴きき橋」や、橋跡の碑が実在し、しかも車折神社の頓宮(三舟祭の終わりにお入りになるお宮)前にあったなんて!
もっと嵯峨野の奥深い所かと勝手に…(笑)
嵐山に行くと必ず歩く場所ですが、はるか昔は人も通わぬうら寂しい所だったのでしょうね。

徳子かその側近が因果を含めて天皇に奉仕させたのなら、清盛が目くじらをたてるのは変ですが、その前に清盛の娘婿と因縁があったなら、『不愉快だ!』の一言で小督の廻りの人間が、清盛へのご機嫌取りに勝手に嵯峨野に遠慮をさせた…という事もありえますね。
この時代の清盛は北の首領サマよりもずっと絶対的な権力者でしょうから。

 
 
 
後を書く前にenterを押してしまった<(_ _)> (yukariko)
2007-09-23 21:33:12
安徳天皇生誕前後の記録も載せて下さっているので、平氏・藤原氏それぞれの勢力を背景に何人もの妃が後宮で寵を競った様子が伺えますね。
小督の生んだ範子を徳子(建礼門院)が養女にしているのなら、小督は徳子の手駒だったのではと思います。
 
 
 
車折神社嵐山頓宮前の琴きヽ橋は見過ごしやすいです! (sakura)
2007-09-24 17:30:36
小督の塚を以前訪ねた時は崩れかかった塚でしたが
篤志家の方でしょうか?
塚も新しいものになり、謡曲の駒札も立てられていました。

近くには「小督庵」といういい雰囲気の料理屋さんもありました。

平家物語は古典芸能にも沢山取り上げられ
人々に親しまれています。

先日私も観世会館でお能の「景清」を観てきました。
また平景清もブログの記事にします。


今は渡月橋、車折神社嵐山頓宮辺りはいつ訪ねても
観光客であふれていますが、平安末期・嵯峨野は清涼寺辺りには人家があったたようですがこの辺は寂しいところだったのでしょう。

この時代の男女関係は今の私達には計り知れないものがあります。
小督が登子の婿と付き合うのも徳子が
そんな小督を天皇に差し出すのも理解できません。

男女関係は今よりずっと自由だったのでしょう。
最初に誕生した高倉天皇の子供は乳母の子です。

物語も自分なりに想像しながら読むのもとても楽しいですね。

コメントありがとうございました。
 
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