コメント
 
 
 
今は都会のど真ん中なんですね (自閑)
2015-12-04 08:40:39
sakura様
梶原景時は、義経の敵役と言うことで、悪者になっていますが、義経の戦略は平家も考えが及ばない奇略でしたので、味方にも理解されなかったのでは?と思います。
正攻法では戦況は小康状態で源氏方内部での不満が高まり、義経大望論が生まれつつあり、戦略を立てる梶原景時には面白くなかった。
いずれにせよ、義経の戦略が当たり平家の滅亡が早まったですね。
やはりこの時の嵐は、崇徳院の怨霊がもたらしたかも。
 
 
 
逆櫓の松は、都会の雑踏の中にあります。 (sakura)
2015-12-04 13:42:10
義経は天才的なひらめきで動きますから、軍奉行の梶原景時はじめ
他の人には理解できなかったようですね。

「吾妻鏡」文治元年(1185)2月16日条によると、
大蔵卿高階泰経は義経が屋島に出陣する前日に義経が宿泊する
旅館に来て諌めて言うのには、「自分は兵法というものは知らないけれども、
大将軍は必ずしも一番乗りを競うべきでなく、まず次将を派遣すべきではないか。」
すると「思うところがあるので、先陣を切って命を捨てようと思う。
皆がそうしても私はしない。」と答えた。とあります。

義経は合戦に勝利するためには、自分の命のことを考えていては
勝利はとてもおぼつかない。と思っていたようです。

義経がここで登場しなかったらどうなっていたのでしょうね。

 
 
 
義経がいなくて範頼だけだったら… (yukariko)
2015-12-04 21:19:29
長門辺りで戦はこう着状態のまま長引き、源氏も仲間割れし、その隙に平家が盛り返したかも(笑)
頑張る気の少ない平家の武将たちに本当に出来たとは思えないですけれど。

義経と信長と坂本竜馬の三人は時代をぐるっと回転させたキーパーソンですよね。
三人とも思いがけない奇略で戦況を打開してますし、
彼らが現れなかったら歴史は確実に違っていたと思いますが、義経を一番かわいそうに思うのはやはり、判官贔屓ですね。
 
 
 
コメントのあとを推測してくださったのですね。 (sakura)
2015-12-05 09:35:11
ありがとうございます。
常識にとらわれない信長が新政策を次々に実施し、
彼の登場によって戦国時代は大きく変わり、
薩長両藩が武力で討幕を画策する中、龍馬が考えだした「大政奉還」は
血を流さず革命を実現させる案でしたね。

源平の争乱では、平家一門を木曽義仲が追詰め、
それに留めをさしたのが義経です。
しかし、義経は軍事の天才といわれながら、
人間関係を読み取ったり、駆け引きをすることが
苦手だったようです。これが弱点でしたね。
 
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