コメント
 
 
 
物語には善玉と悪玉が対立する図式がありますが… (yukariko)
2017-05-03 11:15:10
清盛と重盛という親子の対立は物語の副主題にはぴったりですね。栄枯盛衰を描く平家物語にとっては。

重盛は戦に臨んでも冷静沈着、信仰心厚かったが生来病弱(消化器系の疾患?)とか。
先々を思い悩んで神仏に頼ったり、上皇と清盛一門との軋轢を何とか避けようと心を砕いて年来の疾患を重くしていったのでしょうか。
出世前の平氏なら嫡男の母(高階氏)の身分は相応だったでしょうが後妻の時子の妹が宮中に上がりときめけば宮中、平氏一門の中でも時子の血筋の宗盛達の世になってゆきますよね。
傍系に落ちた小松一門はその後の戦いでも意見を取り上げられずただ、駒のように侍大将として使われるのみ。
平貞能の働きによって、重盛の墓や供養する寺、一門の拠り所が関東に残ったのは幸いでした。
 
 
 
そうですね (sakura)
2017-05-03 17:08:37
奢れる権力者の清盛を悪役、その暴走を止め、平家の良識重盛という
対照的な父子の人物像が物語の一つの魅力となっていますね。

平家物語には、清盛を実際以上に悪人として描き、史実をねじ曲げてでも、
重盛を聖人君主に作りかえようとした形跡が見られます。

清盛の悪を強調するために重盛は善人でなければならなかったのです。
このような理想的な人物が早くに亡くなり、
歯止めを失った清盛が権勢を嵩に独裁政治の道を歩み始め、
その悪行によって戦乱が起こり、平氏一門を滅びへと導いたと物語は語っています。

重盛の死後、毛並みのよい時子を母にもつ宗盛が台頭してきましたね。
重盛の嫡男維盛は嫡流ながら、総大将としては連戦連敗、
小松家の人々はいっそう辛い立場に立たされることになりました。
 
 
 
小松殿 (揚羽蝶)
2017-05-06 14:12:53
 加賀のこんな大きな小松市の名前の由来が重盛公かもというのは、嬉しいです。私の浅学のところでは、大阪市東淀川区に小松というところがあり、やはり重盛公の所領だったようです。近くには、平資盛公や西行法師とゆかりがある江口の君堂があります。
何にしても重盛公には、もっと長生きしてもらいたかったです。
私事ですが、5月15日に京都の葵祭に出かけようと思います。その時に知恩寺にも参りたいと思います。情報ありがとうございました。
 
 
 
こちらこそ貴重な情報ありがとうございました (sakura)
2017-05-06 16:29:07
東淀川区小松には、江口の君堂の他菅原道真が配流の時、
立ち寄ったという観梅スポット、松山神社もあり梅見に出かけたことがあります。
その小松が重盛の所領だったとは知りませんでした。

重盛が長生きしていれば、あんなに早く平家が滅亡することはなかったでしょうね。

葵祭、よいお天気になるといいですね!
治承3年の葵祭に小督の生んだまだ2歳の範子内親王が斎王として行列に従い、
それを後白河院や関白基房たちは、それぞれに桟敷を構えて見物しています。
 
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