みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

雷下の法要

2008-08-15 09:28:25 | 仏教

 亡母の初盆と七七忌の法要は、先日の埋葬法要時に繰り上げて済ませた。Img_3385_1 法要開始を待っていたかのように雷鳴が轟き稲光が走り、何度か近くに落雷したのでは!と思った。怖ろしくて、私は内心、法要どころではなかった。

 読経の僧侶は・・動揺の気配を微塵も見せなかった。凛とした声色だった。プロだから当然、とも言えるが、俗人以上に俗物的な坊主が一般的だから、いわゆる高僧の説法よりも私は感銘を受けた。

 この齢になっても私は自分の死を受容できない。死の淵を覗くだけで戦慄が走る。その上「生きている今」さえ、恐怖を感じることがある。この生死の苦悩は科学では救われない。哲学(これは科学の一種だ・・)では解けたとしても、私は救われないだろう。縋るべき残されたものは宗教だけだ。

 親鸞聖人によれば、「信心」は仏様が賜るものだそうだ。「仏様」とは、仏像でイメージされるような人格神ではなく、影も形もない、単なる「方便」として編み出された記号に過ぎない・・という趣旨の一文を、親鸞聖人の「自然法爾章」に見つけたとき、仏教に纏わり付く襤褸が一斉に取り払われた思いがした。

 しかし私は未だに信仰心を持てない。いわゆる「科学的合理精神」が骨の髄まで沁み込んでしまった現代人にとっての宗教、そして「信心」について、森三樹三郎氏(1909~1986)の心惹かれる言説(「老荘と仏教」第Ⅲ章:死の象徴としての阿弥陀仏)がある。