生成AIが作り出したものに意味があるのか
コミュニケーションとは人と人が情報交換して、知識や知見を広げたり、深めたりするもの。
通信とは、テクノロジーを活用して離れた人と人のコミュニケーションを可能にするもの。
放送とは、テクノロジーを活用して一人から大人数に向けた情報伝達を効率化したもの。
インターネットとは、テクノロジーを活用して場所を超えて多対多のコミュニケーションを可能にするもの。
最近の生成AIの発達によって、インターネットの情報が、生成AIによるもので埋め尽くされ、元々の人の意思がわからなくなったり、結果として違ったものになったら、その情報を求める意味はどこまであるのだろう。
みた感じ美しい。
みた感じ正しいっぽい。
みた感じ合理的っぽい。
でも、その意味はあるのか、無いのか・・・
そう思うと、きっと生成AIにより大量生産された頃には見飽きるのではないかと思う。
生成AIによってインターネットのコンテンツは色の無い退屈なもので埋め尽くされるかもしれない。
ならば考え方を変えて、人の意思をより簡単に早く伝えやすくするテクノロジーが生成AIと考えたらどうだろうか。
イメージを文にするのは時間がかかる。
イメージをイラストにするのは時間がかかる
イメージを動画にするには時間がかかる
生成AIによって、これらのテクニカルな障壁を無くすことがてきるかもしれない。
それにより、今まで世に出てこれなかった小さなひらめきが形となってインターネットの上に突如として現れて来るのかもしれない。
そう考えたら生成AIによってインターネットのコンテンツはよりカラフルになるように思えてきた。何だか楽しみになってきた。
それでもやっぱり生成AIに頼らない人の手作業によって手間をかけて丁寧に仕上げた作品は、特別な価値を認められ続けてほしいとも願う。