上杉家の御廟所には東西約113m、南北約180m敷地の中に、数千本の杉の木が植えてある。西側と北側は道路を挟んで民家と接しているので、時々散歩するコースの一つである。最初の4枚の写真は西側の道路から、12代の斉定公の付近のものです。
御廟所にある杉の木の中で、ひと際目立つ樹齢400年近い古木が、斉定公の廟の直ぐ横に聳えている。
南を正面とする御廟所の一番奥には、明治時代に入ってから米沢城(現上杉神社のある所)から移された、謙信公の廟がある。西側からは良く分かりにくいが、北側からは蔦の生い茂る杉木立の中に、廟の柵がしっかりと見えている。
※ 以上の写真は18日の夕方5時頃、散歩の途中に撮影したものです。
米沢市のホームページに、城下町ふらり歴史探訪( ← リンクを貼っています)という記事が掲載してあります。
その第2番目に紹介されているのが上杉家御廟所( ← リンクを貼っています)です。タイトルをクリックすると下の画像がUPされています。
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歴史探訪は米沢に残る遺跡などをわかりやすく説明したもので、平成5年4月から平成10年4月まで広報よねざわに連載されものを収録しています。
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御廟所 米沢市御廟1丁目5-32 歴代米沢藩主の墓所
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前回の普門院に続いて、同じく国の史跡に指定されている御廟所を訪ねてみました。 正式な名称は米沢藩主上杉家墓所。その名のとおり、歴代の米沢藩主の墓(廟)が並び、市民からは御霊屋(おたまや)と呼ばれ親しまれています。正面中央の奥は、戦国の雄将で藩祖と尊敬される上杉謙信の遺骸を安置する廟(ひ宮)です。 言い伝えでは、謙信の遺骸は、甲胄を着せたまま漆で固めて甕に密閉し、埋葬されたと言われています。上杉氏の移動にともない、越後春日山から会津若松、さらに米沢に運ばれ、江戸時代は米沢城本丸に手厚く祀られていましたが、明治9年にこの御廟所に移されました。 この御廟所の地は、初めは謙信の遺骸の避難場所でしたが、元和9年(1624)に初代藩主の景勝が亡くなり、藩主の墓所となりました。遺体は火葬にされ、遺骨は高野山に納め、ここには灰や衣服を埋めて五輪塔を置き、入母屋(いりおもやしき)式の廟屋を建てました。 以後、七代藩主の宗房まで、同じ形式で、左右交互に廟が造られました。景勝の廟屋は約370年前の建物となります。 向かって左側、九代藩主治憲(鷹山)の廟の左となり一段下ったところに、やや小さな廟があります。これは鷹山の長男顕孝(母はお豊の方)の廟です。 顕孝は十代藩主治広の世子(跡継ぎ)となり、次期藩主として期待されていましたが、19歳で病気のため亡くなりました。鷹山はじめ藩内はたいそう悲しみ、これまで世子は林泉寺に墓がつくられていましたが、顕孝の場合は特別に歴代藩主の墓所に葬られました。 また、この時から火葬して遺骨を高野山に納める慣習が改まり、顕孝は土葬となりました。 なぜ土葬に変わったかは不明ですが、鷹山が、わが子を焼くには忍びない、と改められたとも伝えられています。以後、八代藩主の重定から治憲・治広・斉定と土葬となり、廟屋は方形(ほうぎょう)造りと変わりました。 杉木立のなかに整然と並ぶ廟屋は、名門上杉家や米沢藩の歴史を、静かに語りかけてくれます。
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杉木立の中に並ぶ歴代藩主の廟
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正面中央の上杉謙信廟
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参考までに → 上杉家御廟所の公式ホームページをご覧になるには、「
ここ」をクリックしてみて下さい。
下のURLのリンクを貼っています。
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