はじめてその女性が来たのは2ヶ月半前でした。
3年前に、以前からの不定愁訴が、めまいというかたちでからだに現れはじめたそうです。
病院を訪れましたが明確な診断はされず、薬を処方されましたが、変化もないので飲むのをすぐやめました。
1回目のセッションは、言葉で伝えてくることははっきりしたものでした。
彼女に当座必要なのは、先祖の墓のお参りをすること、そして沖縄の御嶽をまわることでした。
一方で、セッションでわたしに感じる手応えは少ないものでした。
彼女はどの部位からの痛みも訴えてきます。
しかしわたしにはそれらの痛みを感じることが出来ないのです。
訴える痛みは変わらぬまま、セッションを終えました。
その後彼女は精力的に動き、祈りました。
先祖の地は北海道でしたから、短い期間に北海道、沖縄と長い距離を移動したことになります。
それだけのことをするのには時間がかかると思っていたので、わずか2ヶ月で宿題をやり終え、2度目のセッションを申し込んできたときには驚く一方、真剣にメッセージに向き合ってくださったことを嬉しく思いました。
さて今回の2度目のセッション、からだがだいぶ軽くなっているのは彼女にもわかりました。
ただ、彼女が口で伝えてくる痛みと、わたしが感じる痛みの部位は違っているのは初めてのセッションの時と同様です。
『しっかりしすぎている。』
『もっとルーズでいい。』
伝えてくる言葉は、彼女にも頭では納得できます。
ただ、力の抜き方がわからないのです。
やがて、わたしには彼女とわたしが感じる痛みの場所が違う原因がよくわかってきました。
「その痛みはないですよ。
本当に痛い場所はこちらですよ。」
わたしが言うことに彼女は首をかしげていましたが、本来の自分の感覚が戻ってくると、わたしが伝える痛みの場所、彼女が痛く感じる場所が一致してきました。
そして、当初彼女が訴えていた痛みは全くなくなりました。
不安感から、ないはずの痛みを創り出していたのでした。
深い納得を得て、言葉にできない曖昧な不安感、自分の行動が正しくないのではという焦りなど、からだのそこら中に散らばっていたものが一本化されたようです。
見えない原因でいえば、まわりに吊るし上げられ、処刑された恐怖という過去生からの遺物もありました。
彼女にはそれも納得がいくものだったようです。
大切なのは、不安をなくしていこうとするアプローチではなく、自分でがんばる部分を減らし、まわりの人や見えない世界を信頼しゆだねていく、というゆるい考え方です。
不安は、”感じてはいけないもの”ではありません。
不安もあってかまわない、でも見えない世界との密接なつながりをよくよくわかってくれば、いつも背後から追い立てられるようには感じなくなるでしょう。
からだの重みがない状態は3年以上ぶり、ということでした。
この3年間は、これからの人生を考えれば実に貴重な体験だったと思います。
『これで自分をめぐる冒険はひとまず終わり』
と聞こえました。
今度はまた新たな冒険のお手伝いができれば嬉しく思います。
3年前に、以前からの不定愁訴が、めまいというかたちでからだに現れはじめたそうです。
病院を訪れましたが明確な診断はされず、薬を処方されましたが、変化もないので飲むのをすぐやめました。
1回目のセッションは、言葉で伝えてくることははっきりしたものでした。
彼女に当座必要なのは、先祖の墓のお参りをすること、そして沖縄の御嶽をまわることでした。
一方で、セッションでわたしに感じる手応えは少ないものでした。
彼女はどの部位からの痛みも訴えてきます。
しかしわたしにはそれらの痛みを感じることが出来ないのです。
訴える痛みは変わらぬまま、セッションを終えました。
その後彼女は精力的に動き、祈りました。
先祖の地は北海道でしたから、短い期間に北海道、沖縄と長い距離を移動したことになります。
それだけのことをするのには時間がかかると思っていたので、わずか2ヶ月で宿題をやり終え、2度目のセッションを申し込んできたときには驚く一方、真剣にメッセージに向き合ってくださったことを嬉しく思いました。
さて今回の2度目のセッション、からだがだいぶ軽くなっているのは彼女にもわかりました。
ただ、彼女が口で伝えてくる痛みと、わたしが感じる痛みの部位は違っているのは初めてのセッションの時と同様です。
『しっかりしすぎている。』
『もっとルーズでいい。』
伝えてくる言葉は、彼女にも頭では納得できます。
ただ、力の抜き方がわからないのです。
やがて、わたしには彼女とわたしが感じる痛みの場所が違う原因がよくわかってきました。
「その痛みはないですよ。
本当に痛い場所はこちらですよ。」
わたしが言うことに彼女は首をかしげていましたが、本来の自分の感覚が戻ってくると、わたしが伝える痛みの場所、彼女が痛く感じる場所が一致してきました。
そして、当初彼女が訴えていた痛みは全くなくなりました。
不安感から、ないはずの痛みを創り出していたのでした。
深い納得を得て、言葉にできない曖昧な不安感、自分の行動が正しくないのではという焦りなど、からだのそこら中に散らばっていたものが一本化されたようです。
見えない原因でいえば、まわりに吊るし上げられ、処刑された恐怖という過去生からの遺物もありました。
彼女にはそれも納得がいくものだったようです。
大切なのは、不安をなくしていこうとするアプローチではなく、自分でがんばる部分を減らし、まわりの人や見えない世界を信頼しゆだねていく、というゆるい考え方です。
不安は、”感じてはいけないもの”ではありません。
不安もあってかまわない、でも見えない世界との密接なつながりをよくよくわかってくれば、いつも背後から追い立てられるようには感じなくなるでしょう。
からだの重みがない状態は3年以上ぶり、ということでした。
この3年間は、これからの人生を考えれば実に貴重な体験だったと思います。
『これで自分をめぐる冒険はひとまず終わり』
と聞こえました。
今度はまた新たな冒険のお手伝いができれば嬉しく思います。
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