風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

68度目の夏(上)

2013-08-16 02:35:14 | たまに文学・歴史・芸術も
 映画「風立ちぬ」はまだ見ていませんが(暑さですっかり出不精です)、主人公・堀越二郎さんの「零戦~その誕生と栄光の記録~」(角川文庫、原著は1970年3月カッパブックス刊)を読みました。零戦の主任設計者として、限りある資源の中で相反する性能実現の要求を突き付けられながら、苦悩と不屈の精神の末に、世界に冠たる「名機・零戦」に結実していくプロセスが切々と綴られます。その中にこんなくだりがあります。

(前略)技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とは違って、いつも厳しい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事を成し遂げるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破って行くだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。(中略)私が零戦をはじめとする飛行機の設計を通じて肝に銘じたことも、与えられた条件の中で、当然考えられるぎりぎりの成果を、どうやったら一歩抜くことが出来るかということを常に考えねばならないということだった。思えば零戦ほど、与えられた条件と、その条件から考えられるぎりぎりの成果の上に一歩踏み出すための努力が、象徴的に表れているものは滅多にないような気がする。(後略)

 描かれているのは、技術者の苦悩と喜び、そしてつまるところは矜持であり、その背後には、「まえがき」にあるように、資源に乏しい我が国が「技術の水準も、それを支える人の数も、まだまだ十分とは言えない。そのような日本にあって、これからの若い世代が、たんに技術界だけでなく、すべての分野で日本の将来をより立派に築いていくために、誇りと勇気と真心をもって努力されることを念願」する思いがあります(念のため、1970年当時のことです)。その神髄は本書を読んで頂くことにして、零戦という、まさに当時の日本を象徴するような存在を産みだした一人の、しかし飛び切り優秀な技術者が横目で眺めた大東亜戦争における日本のありように、ちょっと注目してみたいと思います。
 零戦は、間違いなく世界に冠たる「名機」でした。こんなエピソードが紹介されています。開戦後、オーストラリア、ニュージーランド、ジャワなどに分散していた日本人約3,000名がオーストラリアのキャンプに収容された際、キャンプの監督将校たちは、三菱商事の社員4名に対し、三菱重工と三菱商事の区別をせず、ただ「三菱」という名前だけで、「君たちは、あの強いゼロ・ファイターを製作している三菱の社員だろう」という尊敬の眼差しで接し、敵ながら天晴れだと言わんばかりに、精神的な礼遇をしてくれ、そこには報復的な憎悪感は全く見られなかったそうです。もっとも、開戦当初で、泥沼の戦争の悲惨を味わう前の、やや呑気でお気楽な気分が感じられますし、職業軍人だからこそ分かる世界もあるのでしょう。
 確かに、開戦以来、日・米の量的な差は明白で、量的な劣性を質的な優性で跳ね返す戦法でなんとか凌いでいた日本軍でした。しかし、まさに開戦初期、アリューシャン作戦に参加し無人島に不時着した殆ど無傷の零戦一機をアメリカが入手してから、零戦の運命は変わり始めます。アメリカのパイロットたちは、当初、「退避してよいのは、雷雨に遭ったときと、ゼロに遭ったとき。ゼロとは絶対に一対一の格闘戦をするな」という指令が出されたほど、謎の飛行機と言われた零戦に、飛行試験を含むあらゆる角度からの調査を施し、その長所と短所を完全に知るに至り、率直に零戦の優位を認めたアメリカは、零戦から制空権を奪う新しい戦闘機と、日本国内の生産活動にとどめを刺す戦略爆撃機の完成に技術開発力を集中し、それ以外の中間的な機種を新しく開発するのを中止した形跡が歴然としてたといいます。片や技術マンパワーに劣る日本こそ、挙国一致の重点政策に切り替えるべきだったのに、開戦から二年経っても、航空機開発には、依然、総花主義が行われ、こうした技術政策の不味さが、初めから終わりまで零戦に頼らざるを得ない事態を招き、ひいては日本軍の決定的敗北に拍車をかけていったと見ます。
 そもそも日本は、先進国に比べてエンジンの馬力が常に2~3割少ないにも係らず、飛行機の性能で張り合って行かなければならないため、数々の要求の内から正しい優先順位を見つけ出し、その順位によって飛行機を具体化して行かなければならない運命にありました。例えば防弾は、爆撃機と違って、零戦のような戦闘機では、飛行機の性能とパイロットの腕である程度補うことが出来るため、優先順位が低く、防弾に費やす分だけでも重量を減らして運動性を良くし、攻撃力を増すほうが有利でした。ところが、ある時から、すなわちパイロットの熟練度が低く(名パイロットが失われたせいですが)、しかも量と量とで戦う場面が多くなるにつれて、防弾の必要性が説かれるようになったといいます。
 また、零戦の生産は、終戦の日まで6年間続けられ、三菱、中島両社で合わせて10,425機に達しましたが、終戦前年11月迄は、三菱の工場だけで月産100機を下らなかった生産は、終戦前月には僅か15機がやっとという状態だったそうです。飛行機生産の最大の支障となるのは原料の補給(燃料のガソリンの原料である石油と、機体に使うアルミ合金に欠かせないボーキサイト)であり、敵潜水艦によって南方からの原料の輸送が遮断されるようになったこと、マリアナ陥落後、アメリカの一大基地が出来て、B-29による本格的な本土空襲が始まり、飛行機生産だけでなく、あらゆる活動が不自由になったこと(その後、重要工場も緊急分散発令が出されました)、そして、終戦前年の12月7日、東海地方に死者1千人も出るような大地震が起こり、三菱の工場も一部崩壊し、悪い時には悪いことが重なるものだと述べておられます。
 大東亜戦争において零戦が全てではありませんが、南方戦線では極めて重要な一翼を担い、その趨勢には貴重な教訓が込められているように思います。つまり、今さらながらではありますが、日本は、資源に制約があること、そのロジスティクスが重要であること、そして資源の制約を乗り越える技術力が生命線であること。これらを克服することが国家の存命の基本になければならないように思います。そして世界の潮流として(その時の世界とは欧米を中心とするものですが)平和を希求するのは素直な感情であり、その場合、価値観を同じくする世界と仲良く付き合っていくことが絶対的に必要な条件ですが、地域を眺めると、それとは明らかに異なる価値観を抱き、覇権を目指す隣人がいる現実を見逃すわけには行きません。68度目の終戦記念日あるいは原爆記念日を迎え、戦争は今さら起こって欲しくないですし、原爆のような大量破壊兵器には今もなお憤りを覚えますが、だからと言って、原発やオスプレイ配備に素直に反対することにも抵抗を覚えざるを得ません。そこが東アジアという価値観が違う国が混在する地理の難しさなのでしょう。本当に悩ましい。
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