風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

たかがタテカン、されど…

2018-05-16 23:53:10 | 日々の生活
 京都大学の吉田キャンパスを飾る、学生たちの立て看板(所謂タテカン)が、京都市の景観を守る条例に違反するとして、行政指導を受けたらしい。これらタテカンは、常時あるいは一定期間継続して屋外で公衆に表示される「屋外広告物」に該当すると判断され、市の屋外広告物等に関する条例が設置を禁じている擁壁への立てかけや公道の不法占用に当たり、市長の許可も得ていないと指摘されたのだという。そのため大学側は、設置場所を大学構内を中心にし、設置できるのは公認団体に限定し、大きさや設置期間の基準をつくるといった内容の対策案を策定したという(このあたり朝日新聞デジタルによる)。朝日新聞は、記事の中で、花村萬月さんのコメントを紹介している。「昔の京大の立て看板には様式美やセンスがあって、とてもいい感じだった。今は時代の流れなのかチープになっている気がするが、景観を壊しているとは思わない。雑然としたものや、はみだしたものを排除していくのはいかがなものか。京大が本当にそんなことをしてしまうのか、という思いがある」。
 タテカンは、1960年代の学生時代はなやかなりし頃から、半世紀以上にわたって連綿と続いている。私が学生時代を送った1980年代でも、京大のタテカンは、カクカクした独特の字体で、「革命」だの「日帝(日本帝国主義の意か)」だの「米帝(同じく米国の帝国主義を批判)」だのといった、やや大時代なおどろおどろしい言葉が躍って、京都は時間が止まってるなあと、ネガティブではなくポジティブな意味で感心したものだった。建物に貼りちらかしたビラはお世辞にもキレイとは言えなかったが、古き良き(?)大学らしさを醸しだして、味があった。
 そんなノスタルジーはともかく、京都市が言うような「公衆に表示される屋外広告物」かと言われると、ちょっと違和感がある。サークルの勧誘や演奏会・講演会の案内などもあるにはあるが、大学関係者という限られた対象に向けた意見表明や政治的な自己主張が主流で、広告とは言い過ぎだろう。京都市内ではあのマクドナルドでさえ、外装に使用する赤色は原色のそれではなく茶系統の落ち着いた色合いに抑えられているが、タテカンが清水寺境内や河原町の商店街に置かれているわけでなし、街はずれの大学構内とその周囲であって、公道とは言え大学テリトリーとも言えるところでの話だ。市民からは「危険だ」「邪魔だ」との苦情が寄せられているらしいが、「京大らしくていい」と賛同する意見も同じように寄せられているはず・・・などと強弁したところで、京都市の言い分は分からないではない。
 因みに同志社大学では、2年前からタテカン設置は学内のみに限定し、大学への申請が必要らしい。立命館大学にいたっては、今年からは高さ2メートルほどの学内のデジタル看板に移行し、タテカン廃止を目指しているという。「京大だけが法令違反の状態が続くのは社会的責任の観点から不適切」という京大関係者の言い分はよく分かる。それでもしぶとく、タテカンが駄目ならと“寝”看板やTシャツを使った意見表明が登場し、撤去を求める通告書が張られ、撤去されたものが盗み出されて再度設置され・・・など“攻防”が続いて、なかなか壮観で、無邪気に応援したくなる。この程度の「自由さ」「猥雑さ」はもはや長年の間に染みついた京大の個性であって、許容範囲と言ってあげられないものかと、つい思ってしまう。
 ただ新聞記事の写真に見るタテカンの文字は、上手くない。上手くなくても味のある字体であればよいのだが、花村萬月さんのコメントにあったように「様式美」や「センス」がなくて「チープ」。応援するけど、この点は猛省してもらいたい(笑)。
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