風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

花の美しさと季節の美しさ

2012-07-22 22:35:37 | 日々の生活
 先週は仕事で欧州に行っており、そうこうしている内に、梅雨が明けてしまいました。今朝9時過ぎに成田に到着した時、曇り空でも、欧州から帰った身には、さすがに湿度が高いと感じましたが、それでも凌ぎやすい一日で出迎えてくれたようで、ほっとしています。
 実は紫陽花の写真を、いつか載せようと思っている内に、梅雨が明けてしまいました。かれこれ3週間前の盛りの時に撮影していたのですが、ものの一週間もしない内に萎れていました。花の命は短くて・・・(苦しきことのみ 多かりき、と続く林芙美子の詩)、命短し恋せよ乙女・・・(「ゴンドラの唄」1915年)などと、日本では代表的な花である桜をはじめとして、花を人生、とりわけ恋多き青春時代に譬えることが多いのは事実です。
 実際に、行きのフライトの中で読んだ浅田次郎さんの「ロンシャンの女」と題するエッセイで、かつて婦人服業界に身を置いた浅田さんらしく、日本人のミセス・ファッションというものは、「いかに若く見せるか」が永遠不朽のテーマであり、その根底にあるものは、「若さは美しく、老いは醜い」とするアメリカ的な考え方があると述べています。それに引き換え、パリ郊外のロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞に集う女性は、年齢に相応しからぬ若作りの女性がいない、若く見せようとするのではなく、それぞれの年齢を誇っている、そもそも年齢を引き合いに出すこと自体が無意味で、自分の年齢を全く意識せずに、今このときに最も美しく見える姿を演出しているのであろう、とさえ述べています。さすがに鋭い視点だと思いました。
 人生は花ばかりではありません。蕾もあれば、実もあり、いずれは枯れて行きます。それでも、世阿弥は「時分の花」「真(まこと)の花」と呼び、その時々の美しさ、面白さを唱えました。能の世界で、年齢の若さによって現れる、芸以前の一時的な面白さ(時分の花)はいずれ失われる、その失われていくものを補いながら、鍛練と工夫の末に得た、芸の真実の面白さ(真の花)を手に入れた者の能は下がらない、というわけです。
 四季折々も人生に譬えられます。春から夏にかけて命は漲り、秋から冬にかけて、命のエネルギーは死に向かって枯れて行きます。それでも、古来、日本人は四季折々に美しさを見、愛でて来ました。「旬」を尊ぶ一方で、若さにとらわれることなく、スルメのように瑞々しさが失われたとしても、年齢相応の味を醸し出せればいいと、この歳になると思います。
コメント (2)
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