風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

六十五回目の夏(4)責任論

2010-09-29 01:16:30 | たまに文学・歴史・芸術も
 秋になっても、まだ六十五回目の夏を追いかけます(このテーマは、余程気合いを入れないと、なかなか筆が、否、タイピングが進みません)。
 さて、戦争観の難しさは、つまるところ戦争責任論に収斂し、戦争責任論は、実はそれ自体にそれほどの意味があるとは私には思えないのですが、喉に突き刺さった小骨のように、どちらかと言うと誰にとっても致命的では毛頭ないにせよ気に障る存在ではないでしょうか。とりわけ左派にとっては、昭和天皇が東京裁判とその場で追及されるべき戦争責任を逃れ得たことが気に食わない、そもそも天皇制(左派の用語をそのまま使用)の存在そのものが気に食わないのだから当然のことです。そんな左派の立場をさりげなく主張したのが「昭和天皇の終戦史」(吉田裕著)です。
 本書では、昭和天皇を輔弼する国務大臣と違って、タテマエ上は国務に関する権限を有しない側近を中心とする宮中グループ(侍従長や内大臣だけでなく、元老や重臣を含む)の存在を一つの有力な政治勢力として再認識し、国体護持と、昭和天皇の戦争責任を回避するための行動動を取ったことを、克明に描写します。そして1990年に発見され話題を呼んだ「昭和天皇独白録」を、単なる回顧談ではなく、東京裁判対策を強く意識しながら、直接的にはGHQに対して、天皇に戦争責任がないことを論証するために作成された政治的文書(弁明の書)であったと位置づけます。前者は、確かにそういう面があったかも知れませんが、後者についてはちょっと疑わしい。
 筆者によると、その頃のGHQ関係者の証言を辿ってみると、1946年1月25日に、マッカーサー元帥がアイゼンハワー陸軍参謀総長に宛てた極秘電の中で、終戦時までの昭和天皇の国事への関わり方は大部分が受動的なものであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったと述べ、既に昭和天皇の免責の方針を固めていたことが知られていますが、3月6日に重臣の米内光政と会見したボナ・フェラーズ准将は、昭和天皇を戦犯者として処罰すべしとする国際世論をかわし、日本でも共産主義革命を企図するソ連の動きを封じるため(昭和天皇を訴追すると、広く日本国内に混乱を招来しかねないこと、即ちソ連にとって有利な状態が現出しかねないことが懸念されました)、昭和天皇に責任がないことを日本側に立証して欲しいと述べています。そして参謀第二部長だったウィロビー少将の回顧録では、昭和天皇の考えを文書化することに成功したことを伝えると共に、「独白録」の一部が引用されているそうですし、その英文版が勝田龍夫氏によってペン州ゲティスバーグ・カレッジ図書館で発見されたそうです(しかし前掲書では詳細に触れられていません)。
 確かに「昭和天皇独白録」(寺崎英成編著)では、国際連盟脱退や満州事変といった重要事件に触れられず、張作霖事件に始まり終戦で終わるというように、東京裁判が対象とする時期に合致していること、また元来、臣下を批判しない公平無私なお方であるとの建前を取って来られた昭和天皇が、比較的自由に人物評を語っておられること、そこには、1945年9月に昭和天皇とマッカーサー元帥との会見で伝えられた「私に責任がある」といったトーンがまるで見られず、結果として責任を他に転嫁していると見えなくもないこと等、前掲書の筆者の言わんとするところも分からなくはありません。しかし虚心坦懐に「独白録」を読むと、基本的には昭和天皇が率直に語るお人柄が偲ばれます。筆者によれば、昭和天皇を守るために、全てを陸軍とりわけ東条英機の責に帰そうと、GHQと宮中グループは共謀したと説明されるのですが、そのわりに「独白録」における昭和天皇の東条英機評は必ずしも悪いわけではありませんし、昭和天皇自ら責任を回避しようと言い訳がましいところを見せることもなく、むしろ当時のご自身の思い通りにならない関係者の態度への苛立ちの色が見て取れるほどです。
 こうして見ると、「独白録」を、東京裁判対策を強く意識しながら、直接的にはGHQに対して、天皇に戦争責任がないことを論証するために作成された政治的文書(弁明の書)だったとまで積極的に意味を付与するのはやはり言い過ぎで、もう少し緩やかに、仮に東京裁判対策を意識したにしても、当時、既に軍や政界や宮中関係者の日記や手記が公開され始めている中、昭和天皇の立場を守る意図から、昭和天皇にお願いして先ずは事実関係を自由に語って頂いたと見る方が自然ではないか、その中から、側近の手によって内容を取捨選択して翻訳され、GHQに対する弁明に使われた部分があったかも知れませんが、それは最初から意図したのではなく(繰り返しますが、もし意図したとするには昭和天皇の語り口は余りに「自由」かつ「率直」です)飽くまで派生的なものだったと言うべきではないかと思うのです。それが、今も昔も、凡そ天皇と呼ばれる権威者(権力者ではない)を取り巻く環境でしょう。
 さてそれでは「独白録」はともかくとして、依然、戦前の昭和天皇の戦争責任を否定することは出来ないのではないか、という問題は残ります。昭和天皇は、立憲君主として、内閣や陸海軍が一致して決定した事項に対しては、たとえ異論があったとしても従うことを原則とし、あくまで政府や軍の決定した最終案を裁可の段階ではそのまま受け入れていたのはよく知られるところですが、裁可に至る「内奏」の段階では、積極的に自己の意思を表明したり主務責任者に説明を求めるという、所謂「ご下問」の形で、自己の意思を間接的に表示することが少なくなかったと言われるからです。果たして実態はどうだったのか。こればかりは今となっては分かりません。左派の論調は、実質的な昭和天皇の権力をなんとしてでも認めようとするわけですが、私自身は歴史上の天皇がそうであったように権威はあっても権力はなく、関係者の証言をもとにしても昭和天皇が絶対君主であったとする証拠は乏しく、説得力がないと言うべきです。むしろ、軍や政界の関係者が立憲君主としての昭和天皇を神輿に担ぎ、悪い言い方をすると利用して、裏を返せば昭和天皇としては自らの思い通りにならなかったというのが、「独白録」にはしなくも表れた昭和天皇の偽ざる思いであり、日本の伝統的な権力構造の姿として自然ではないかと思います。
 そんな戦争責任ある・なしの責任論自体に大した意味があるとは思わず、むしろそれが問題ですらあると思うは、責任論と言う時に、先の戦争が邪悪なものだったというアプリオリの評価が前提としてあるから、あるいは対となって受け入れられているからです。先の戦争が悲惨な戦争であり、愚かな戦争だったことは間違いありませんが、邪悪と見なす所謂東京裁判史観を前提としたかのような責任論には与したくありません(今日のところは、邪悪だったか否かの私自身の価値判断は留保します)。さらに、左派の人たちの論理で問題だと思うのは、歴史における共産主義者の暗躍を意図的に看過していることでしょう。東京裁判が長引いたからこそ、ソ連の共産主義に対する警戒心が高まり、東京裁判の行方に影響を与えたのではなく、既に戦前に防共協定が結ばれ、満州事変の真相究明のために派遣されたリットン調査団はその報告書の中で、中国共産党がソ連と組んで国民政府に取って代わるかもしれない可能性を指摘しており、アメリカですら1933年までソ連を国家承認せず、ハルノートを起草した財務次官ハリー・D・ホワイトはソ連のスパイだったことや、こうした共産主義者(そう呼んで差し障りがあるなら先進国において新しい革命論を引っ提げ、ニューディール政策を支えたフランクフルト学派の人たちと言い換えてもよい)がGHQの中に入り込み、伝統的な日本を破壊する視点から対日占領政策の立案に携わっていたことが、冷戦の崩壊とともに流出した資料によっても明らかにされつつあります。
 こうして責任論は純粋な学術論争ではなくイデオロギー論争になりがちなのが難しいところであり、戦争観を曇らせる元凶でもあります。
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