My Life After MIT Sloan

組織と個人のグローバル化から、イノベーション、起業家育成、技術経営まで。

日本でイノベーションを加速する・その2

2009-01-29 22:17:46 | 3. 起業家社会論

以前、「日本でイノベーションを加速する」という記事を書いた時のこと。
誰かがこれを読んでこんなことを言ってた。
曰く、「結局イノベーションなんて、壁をぶち破ってしまうようなとんがった人材が引っ張らないと、生まれない。
日本は、そういう人材が出て来れない社会の仕組みになってしまっていることが問題。」と。

前半については、全くその通りだとは思う。
私自身も、既存の仕組みでは満足できず、何か新しいものを作ろうっていうエネルギーにあふれる人が、基本的にはイノベーターとして何か新しいものを生み出すことが可能なのだろうと思う。
また、
そういう人がいないと、イノベーションが起こらない、というのは同感だ。

ただ、後半は若干議論の余地があると思った。

日本がシリコンバレーみたいに、起業家がポコポコ出てこないのは何故か、という問いに対し、
「日本人は安定志向で、能力があっても、大企業に収まって満足出来てしまう人が多いから、チャレンジをしないのだ」
という答えは良く聞く。
つまり、日本人がイノベーティブではないのではなく、そういう何かを生み出す能力を持った人でも、大企業の組織の論理に耐え、仕組みを享受してしまう人が多いから、起業などをせずにいたってしまう、というわけだ。

これは感覚的には、そうかな、と思う。
個人的には、イノベーターとしての能力はあるし、既存の仕組みを壊して新しいものを作りたいという欲求もあるが、安定志向もあるので大企業に就職してしまい、起業するまでは至らない、という中途半端な人が多いんじゃないか、とか思っている。

問題は、仮にそれが本当だとして、だから何なのだ、ということだと思う。
そういう中途半端な反骨精神を持った人たちをうまく生かして、イノベーションにつなげていくってことが出来るんじゃないか。
仮に日本に、そういう中途半端人が多いのであれば、そういう仕組みをつくらないと、イノベーションが生まれないじゃないか、と思うのだ。

前に私が「日本でイノベーションを加速する」にて、大企業における企業内起業(Corporate entrepreneurship)やCVC(Corporate Venture Capital)を推し進めるのが鍵ではないか、と書いたのは、実はそのあたりの問題意識に起因している。

要はシリコンバレーでは、本当に何かを生み出す能力のある優れた人は大企業に行かずに自分で起業する。
だから、起業家支援がイノベーションにつながっていく。
でも日本では、本当に何かを生み出せる優れた人も、大企業に入ってしまう。起業までいたる人は少ない。
だから、単なる起業家支援では、そういう
能力はあるが、中途半端な反骨精神を持った人を拾えず、イノベーションが生まれない。
一方、
大企業であればあるほど、組織間の壁とか、何かを生み出し、市場まで育てる際の壁が大きく、結果としてイノベーションが生まれにくくなる。

そうすると、大企業にいる、そういう人を生かして、上手くイノベーションにつなげられないか、と思うのだ。

70年代、80年代までは、大企業には、中央研究所と呼ばれる、新しい技術をインキュベートする仕組みがあって、優秀な人たちはそこで技術的イノベーションを起こすことが出来た。
また日本の大企業には、「まあやってみなはれ」みたいな感じで、優秀な人たちが社内で新しいことをやってみるのを許す懐の深さがあった。
そういうものが、大企業でのイノベーションを生み出す素地になっていたのだと思う。

それが、80年代後半から上手くいかなくなってきた。
中央研究所からのリニアモデル(基礎研究→応用→市場化という流れでイノベーションを起こすこと)が、処々の理由により上手くいかなくなり、縮小された。
株主を意識してか、日本企業も、一見無駄だが長期的にRewardされるかも知れないものに投資する、懐の深さが許されなくなってきた。

でも、大企業にはイノベーションを起こすための人も資源もまだあるわけで。
株主も納得し、そういった人と資源を生かしてイノベーションに繋げていくような仕組みをつくれないものかな、と思っている。

結局今日のエントリは自分の思考への補足説明をしただけで、何も前に進んでないのだけど。
まあゆっくり考えてきます。

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2 Comments

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インセンティブ (icy)
2009-01-30 08:32:09
イノベーションを起こさないように行動することが、その人の置かれた状況、社会においては最適である可能性があります。変にリスクを取った行動するより、ある程度の成績で周囲と摩擦を起こさず、安定した生活を送る方が、障害年収の期待値などが高い可能性があります。それは個人レベルだけでなく、企業レベルでも言えます。政官民の鉄のトライアングルはまだ生きており、硬直化した社会があります。この社会は20年前まで比較的上手く回っていましたが、経済規模がある水準に達して急成長が難しくなると同時に、社会と経済のグローバル化が進行したため、必ずしも上手く機能していません。それでもなお、短期的視点、あるいは個人的視点では、あえて社会のシステムにチャレンジすることが合理的とは言えないのでしょう。皆、社会はちょっと間違っていると感じていても行動に踏み出せないのは、典型的な合成の誤謬です。しっかりした社会システムが完成している中でこういう合成の誤謬が起きていると改革派非常に難しいですが、ひとつの鍵になるのは象徴的な変化です。賛否両論あると思いますが、小泉・竹中改革は上記の意味で非常に意義があるものでした。こういう社会的背景を考えると、日本におけるイノベーションの起こし方の議論は深まります。決して1つの企業レベルの問題ではないと思います。長くなったのでまたこの次。
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システムの再構築とゲーム理論 (Lilac)
2009-01-30 15:15:56
含蓄深いコメントを有難うございます。大変勉強になります。

個人レベル、企業レベルでは社会システムにチャレンジせずに生きたほうが得なので、結局変えるのが難しい、という話は、まさにゲーム理論だなあ、と思いました。
おそらく、社会システムの変革を起こすべきか、どういうインセンティブを導入すれば、個人や企業が自然と動いて、その変化が起こるのか、ゲーム理論的な視点で解き明かしている理論も世の中にはあるのだと思います。

ただ、余りに抽象論な理論に走りすぎず、具体的にどういうインセンティブを導入すべきかを議論しないと意味無いので、悩ましいところです。
小泉改革が仮にその例なのだとしたら、理論とつながってるのか、勉強してみたいものだと思いました。


どうせ景気も悪いし、焦ってどうこうする話でもないので、じっくり勉強しながら考えて行こうと考えております。
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