暇つぶし

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消えた三別抄、実は琉球に逃れていた!? (朝鮮日報) について

2009-05-05 15:31:04 | 外国
内容は


1273年に済州島から敗走した一部の勢力が沖縄へ

当時の船なら早くて三日

 大帝国モンゴルの馬のひづめが高麗を踏みつけた13世紀、最後まで対モンゴル抗争を繰り広げた軍事集団が「三別抄」だった。崔氏政権の私兵だった三別抄は、王室が江華島から開京(現在の開城)に戻った1270年(元宗11年)、承化侯・王温(ワン・オン)を新たな君主に推挙し、ぺ・ジュンソンの指揮下で抵抗を開始した。


 三別抄は1271年5月に高麗・モンゴル連合軍の攻撃を受け、根拠地だった珍島が陥落した。それでも、金通精(キム・トンジョン)を中心として済州島に移り、ここから現在の京畿道富川まで攻撃し、死闘を繰り広げた。73年4月、軍船160隻に乗り込んだ連合軍が圧倒的な軍事力で済州島に猛攻をかけた。金通精は自決し、残る1300人は捕虜となった。今までの歴史は、ここで三別抄が滅亡したと見ている。


 果たして、捕虜を除いたほかの人々は全滅したのだろうか。もし、生き残った三別抄の勢力の一部が胸に「恨」を抱いたまま水平線のはるか南へ向け旅立っていたとしたら、彼らが到着した場所はどこだったのか。済州島から南へ700-800キロ離れた沖縄ではなかったか。後の時代に洪吉童(ホン・ギルトン)が渡って作った「島国」がまさにそこだ、という話も伝えられている島だ。


 ところが、これは想像の上での話ではないという状況になった。学界で本当にこうした主張が提起された。公州大歴史学科のユン・ヨンヒョク教授は、3月20日に開かれた韓国中世史学会主催の学術大会で、「沖縄の高麗瓦と三別抄」と題する論文を発表した。沖縄本島南側の浦添城などから出土した瓦は、73年に高麗の三別抄の勢力によって作られた可能性が大きい、というのがその内容だ


 早い話が、琉球は元は韓国人が作った国であり、沖縄(琉球)は元は韓国のものであるといいたいのであろう

 対馬だけでなく沖縄も韓国領と言い出したのだろう、次は九州も韓国領であると言い出すかもしれないと思うのは私だけだろうか


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