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三題話「〇活、とらい、ねずみ」 <南蛮菓子とじゃがたらお春>

2020-03-07 | Weblog
週刊ドリームライブラリーより
三題話「〇活、トライ、ねずみ」

<南蛮菓子とじゃがたらお春>

三題話 
<〇活、ねずみ、トライ>
「南蛮菓子とじゃがたらお春」





平安末期から鎌倉時代初期に活躍した栄西という僧侶がいたことをご存知でしょうか。日本で初めて禅宗を伝えた人です。
現在の中国にあった南栄に修行に行き、1191年50歳の時に現在の長崎県平戸島に帰着するのですが、
島内の冨春庵(現在の千光寺)において禅宗を広めはじめたと言われています。

またその裏山に当時は忘れ去られていた喫茶を復活させるために茶のタネを持ち帰りこれも日本で初めて茶畑を作った人なのです。
つまり「禅」も「茶畑」も平戸島が日本初という事になりましょうか。この高僧の話をすると長くなるのでまた別の機会に。

さて、栄西僧侶のように海外との行き来をしていたのは今から2000年以上も前からで、600年ごろには遣隋使・遣唐使の寄港地として名をはせ日本の西のはずれに位置する九州長崎県平戸島は、アジアとの交流が連綿と続いていたのです。




少し時代が下って室町時代の1541年(天文10)ポルトガル船が豊後(ぶんご=大分県)に漂着して、ポルトガル、スペイン、オランダなどの南蛮船が日本に頻繁に渡来するようになりますが、1550年には平戸の松浦家25代当主松浦隆信公も平戸港でポルトガルと南蛮貿易を行うようになります。
同年9月にはフランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、キリスト教(カトリック)の宗活布教を始めるのです。その後も多くの修道士の布教が続きますが、後の幕府による禁止令とともに隠れキリシタンの歴史が加わります。長崎と天草地方の潜伏キリシタン教会群が世界文化遺産になったこともお話したいですが、長くなるのでまたの機会に。





続いて1600年(慶長5年)、かの三浦按針(ウィリアム・アダムス)がオランダ船リーフデ号でまたまた豊後(=大分県)に漂着するのですが、そのことから松浦家第29代(平戸藩4代) 松浦鎮信(まつら しげのぶ)が徳川家康より6万3千石の領地を与えられ、平戸藩が確立します。
そして1609年(慶長14年)- オランダが商館を平戸に設置するのです。



平戸藩松浦鎮信という大名は知的な人で、当時すでに、冒頭でお話した栄西僧侶が平戸で日本初の「茶畑」を作ってから400年余り経ち、ひろめた喫茶がいくつもの流派となって高められていたので、自らも名前の「しげのぶ」からとった「鎮信流(ちんしんりゅう)」を立ち上げるほど茶道に熱中します。
茶道にお菓子はつきもの。
西洋から入る鉄砲や洋酒などとともにビスケット、カステラ、コンペイトなどの南蛮渡来のお菓子が、南蛮菓子としてお茶にも供されます。実は「砂糖」が日本に初めて入ったのも平戸島でした。後に平戸藩松浦家35代の煕(ひろむ)公が南蛮菓子や日本の和菓子を集めて「百菓之図」を編集したお話もしたいのですがそれもまた次回に。


1613年(慶長18年)- オランダに続いてイギリスが平戸に商館を設置します。
余談ですが、1615年(元和元年)- イギリス商館長リチャード・コックスがこれもまた日本で初めて!平戸島の土地でサツマイモを栽培するのです・・・(え?琉球が先?異議受け入れます^^)サツマイモの話も一言ありますが、それもまた次の機会に。


さてさて、平戸港はもともとアジアとの貿易で盛んではありましたが南蛮船のおかげでさらに賑わったのはしかしわずか100年足らずでした。三浦按針が平戸に1613年(慶長18)にやって来ますが、按針のおかげで平戸に商館が建てられたと言われていましたので、1620年外交のために江戸から来ていた三浦按針が平戸で病没すると(埼方公園にお墓もあります)、 1623年(元和9年)イギリス商館は閉鎖されてしまいます。 1641年(寛永18年)には オランダ商館も長崎の出島へ移転し、平戸での南蛮貿易が終焉を迎えるのです。




その少し前1639年江戸幕府三代将軍家光公は、ヨーロッパ人の父親と日本人の母親に生まれた混血児を現インドネシア共和国のジャガイモの語源である「ジャカルタ」へ追放しました。キリスト教を恐れたためでした。

彼女らは二度と故郷の地を踏むことはありませんでしたが、禁教のキリスト教に関係のない内容であれば、手紙は許されていましたので、追放された可哀そうな子女たちの悲しい手紙が異国の地から送られてきました。
現存するのは、お春・コショロ・コルネリア・フクという女性たちの4通の手紙で、
「あら 日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや・・・」
それを総じて「じゃがたら文」といいます。
平戸港に復元されたオランダ商館でじゃがたら文を見ることができます。
(ネズミにかじられたようなパッチワーク布袋に描かれたコショロさんのじゃがたら文の画像がパッケージになった「長崎物語」というお菓子もあります、余談^^)




その中にお春の手紙も伝えられていました。15歳の子供が描いたとは思えない古文などの言葉を引用した素晴らしいもので「この子の手紙を読んで泣かないものは人非人といえる」とまで言った江戸中期の天文・地理学者の西川如見(じょけん)の言葉が、のちに「長崎物語」という「じゃがたらお春」をモデルにした歌まで作られることになりました。

可哀そうなじゃがたらお春・・・





ですがその後、ジャカルタの古文書館にお春の遺言書が保存されていることがわかりました。お春は1624年子年生まれ。父はイタリア人、母が日本人でした。1639年母や姉とともに追放されますが、1646年には同じく日本から追放された平戸生れの混血オランダ人 S.シモンセンと結婚して4男3女の母ともなります。
シモンセンは東インド会社の事務員補から次第に昇進し,税関長,中国人遺産管理委員,孤児財産管理委員を歴任してその後独立し貿易業を営み72年に病死します。

お春はその後も夫の遺産で裕福に暮したそうです。 ジャカルタでは遺言書を残すことが習慣化されていたようで、 1697年3月 自身も遺言状をしたため、同年4月 に亡くなりました。73歳でした。
1697年というと日本は生類憐みの令の5代綱吉の時代ですから、日本の結婚した女性が遺書を書くことなど殆ど無く、遺言書を残すことができるくらいの裕福な暮らしができたジャカルタでの生活のほうが良い悪いではなく、上質だったかもしれません。
お春の遺言書には遺産の分配法などが示されている他、富裕層の証である「奴隷」も所有していたようで、彼ら奴隷には自身の死後自由を与える、という文面もあったそうです。「じゃがたら文」から想起された西川如見のおそらく創作文であるお春の悲劇的な印象とは異なる生涯を送っていたわけです。

ただ、二度と踏めなかった日本国に郷愁がなかったかと言ったらそれは違うでしょう。また、お春のような幸せな生活を送った人は稀で、殆どが記録さえ残されていない悲しい末路だったのかもしれません。
時代に翻弄された女の子の悲しい姿が平戸港に立つ「じゃがたら娘の像」からも訴え、語り継がれていくような気がします。



参考:白石弘子『じゃがたらお春の消息』
外山幹夫「松浦隆信、平戸に夢を託す」
平戸市文化観光商工部 観光課 平戸のキリスト教の歴史
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