友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

電化製品の買い替え時期なのか

2015年10月21日 18時23分55秒 | Weblog

 我が家の電化製品に次々と不具合が生まれてきた。テレビは買い換えたけれど、洗濯機と冷蔵庫と電気釜はそのまま使っている。冷蔵庫は電気屋さんに来てもらって修理したが、調子はよくない。このところ2晩続いて、夜中に大きな物音がしている。カミさんが冷蔵庫と格闘しているのだ。「冷凍室に空気が入って氷が出来て、蓋がキチンと閉まらないから取り除いている」と言う。

 真夜中に大きな音を立てたのはご近所迷惑になる。「もう、限界ではないの?」と言うが、「氷を取ればまだ使える」と言って聞かない。アイスピックでそんなに叩いたら、冷凍庫の壁面が傷だらけになってしまうか、穴が開いてしまうが、必死の形相に何も言えない。しかし今日、とうとう諦めたのか、「家電売り場に行ってきた。あなたも見て」と連れていかれる。冷蔵庫を見ていると知人がやって来た。

 「製氷機が壊れてしまって」と彼は言う。我が家と同じだ。そう言えば、友だちのふたりも「冷蔵庫を買い換えた」と言っていた。同じような新製品が出て、購入したものが痛み出したのだろう。電化製品はある周期で劣化する。そうならなければ、メーカーとしてはやっていけない。大方に行き渡ってしばらくすると、買い替えの時期になるように出来ているのだ。

 合併浄化槽で充分機能を果たせるのに、都市下水がステイタスのようにどこの自治体も下水処理場を建設し、下水管の敷設工事を行っている。全域が完成するまで30年はかかるという。そしてその頃は、下水処理場も新しくしなくてはならないそうだ。こんな風に工事は繰り返され回っている。これが経済活動なのだろう。頂点に達した後は必ず下るわけで、いつも右肩上がりになるのは無理である。

 科学が進歩すれば生産能力も上がる。それで人間は自由な時間を手に入れられる。イギリスでもカナダでもアメリカ型社会から手を引く政党が支持を広げている。生きていられるならあくせく儲けなくてもいいと考える人が増えてきているようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『夢の途中』

2015年10月20日 19時05分19秒 | Weblog

 10月も半ば以上過ぎた。各地で紅葉が見ごろを迎えている。1カ月以上何も連絡がない。どうしているかと気になるが、「お待たせ」などと笑って現れるかも知れない。今は鈴鹿市に住む卒業生を訪ねた時、たまたま同じ鈴鹿市に移り住んでいる同級生がいたことを以前ブログに書いた。彼はハガキ大のスケッチブックの水彩画を見せてくれたがその時、「先生にも送るわ」と言った。何のことなのかと思っていたが、その品が届いた。

 A4判16ページの水彩画集である。『夢の途中』と題した画集は今年の1月に制作したもので、こんな文面が添えられていた。「ヒトの記憶は、喜怒哀楽などの感動を伴うことで心の襞となって、永遠に残るものと考えられます」。続いて、「思い起こせば、昭和45年」とあり、彼が就職したパンメーカーが大阪万博に単独出展し、以後、飛躍的な成長を遂げたこと、創業者、会長、社長に「身近に接することが出来たことは何ものにも代えがたい喜びとなりました」。

 そして「61歳の今、心の襞の一筋を感謝の気持ちをこめてカタチにしました」と画集を制作した理由が書かれていた。水彩を学校では特に教えてはいなかったから、彼が勤めながら自ら学んだものだろう。安城で仲間とともに作品を展示していた卒業生も、画集を出版した彼も、はるかに私を超えている。私も彼らに追い付かなければと思う。

 『夢の途中』。なかなかいい題をつけた。まだまだ途中なんだという彼の気持ちが滲み出ている。300坪の庭があり、農家を買って補修をしているので、「ここで絵の教室を開こうと思っている」と語った。「それは良い」と私は答えた。定年退職し何かをしたいと思いながら決まられない人たちに、絵を描く楽しさを教えるにはよい環境にある。還暦が過ぎ、自由になった時間を人のために使おうとするのも彼らしい。

 彼は花を、彼女は野菜を、教師の先輩はシンプルなデザインを、それぞれに自分の課題を見つけているのに、私はいまだに「自分の描きたいもの」を定めらえない。若い時のまま彷徨し続けている。まあ、それが私の人生なのだろう。どこかで出会いがあるだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国勢調査と情報

2015年10月19日 18時06分18秒 | Weblog

 国勢調査員を引き受けたふたりの話を聞いた。女性の調査員は「女の人のひとり暮らしは身ぎれいにしているし、話していても生き生きしているが、男の人のひとり暮らしは本当にかわいそう。夫と別れたいと思ったこともあったけど、あんな惨めな暮らしはさせられない。夫より先に死ぬことも出来ない」と語る。日頃はダンナをケチョンケチョンに言う人だが、この時は慈愛に満ちた顔だった。

 2回目と言う男性の調査員は、「先回は『何のためにやるんだ。他人の収入まで聞くのはプライバシーの侵害だ』など、ケンカを吹っかけてきた人がいたので、今回はそういう人に出会ったらじっくり話を聞くつもりだったのに、ひとりもいなくて拍子抜けだった」と言う。昼間は働いているから夜回るのだが、百人回れば一人や二人、ケンカ腰で向かってくる人もいるだろう。

 確かに国勢調査って、本当に必要なのだろうか。必ず手渡しと言うが、絶対に守られているとも思えない。住基ネットはどうなったのだろう。そして今度はマイナンバーという。私たち国民にどんなメリットがあるのかと思っていたら、ナンバーを扱うコンピューター会社が役人を買収したという事件が発生した。コンピューター化が進むと、その処理を専門とする業界は仕事が増えるが、そんな経済効果のためなのだろうか。

 翁長沖縄県知事は、県の第三者委員会が前知事の辺野古埋め立て承認には法的瑕疵があるとの答申を受け、承認を取り消した。政府は法廷で争う方針だ。私の周りの人の中にも、「沖縄は米軍基地によって潤っている。反対を叫んでいる連中の多くは本土から出かけている。こいつらは中国から金をもらっているのさ」と本気で言う人がいる。沖縄は観光産業が伸びているから、米軍基地が亡くなればさらに訪れる人も増えるだろう。沖縄は独立できるほどの経済力なのに、いまだに「金欲しさで要求しているのだ」と信じている困った人たちだ。

 正確な情報を知らないと、勝手な思い込みが横行する。人によって判断の基準は違うかも知れないが、より多くの情報が入るなら、いつしか自分の判断基準も変わるだろう。目で見ることが一番だろうから、メディアの役割は大きい。若い人たちはネットかな?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恨み

2015年10月18日 17時51分46秒 | Weblog

 横浜市で三井不動産グループが販売したマンションが傾き、問題になっている。完成から8年経て、不具合が生じてきたのだ。施工不良が原因のようだが、さらにデーターの偽装も発覚した。先輩は言う。「完全に恨みだね」。ウラミってどういうこと?と聞くと、「大手にいじめられた人間が仕組んだのさ。問題が公になったその時は、そいつは退職していないだろう」と答える。

 「リコール問題はたいていは内部告発だ。正義感からものを言う奴もいるけど、大方は上層部とか上司とかに対する恨みだ。恨みほど大きなエネルギーを駆り立てるものはないのさ」。「大手の連中は威張り腐って、無理難題を押し付けてくる。それを当然のように思っている。押し付けられた方のことなど、これっぽっちも考えていない。いつか必ず仕返ししてやる、そう思った奴の仕業だろう」。

 そんな大それた事件を起こす人が本当にいるのだろうか。考えてみれば、自爆テロなどは自分の命と引き換えに行う行為だ。それが正しい行為と言われたからというよりも、積年の恨みが根底にあるから出来るのかも知れない。人を愛することも大きなエネルギーを必要とするけれど、恨みはもっと大きなエネルギーとなるようだ。

 中国が記憶遺産として提出した南京虐殺の資料をユネスコが受け入れた。政府・自民党はこれを非難し、「ユネスコへの分担金を出さないこともあり得る」と管官房長は発言している。戦争は虐殺の連続であり、今も「イスラム国」に対して空爆が行われている。蒋介石が南京を脱出する際に、同じ中国人を処刑したり逃げ出さないように鎖で縛りつけたこともあった。占領した日本軍の中には中国人の首を日本刀で切り落とす「百人切り」を行った者もいる。中国の資料も日本の資料も、全ての記憶を残すことは人類にとって意味がある。

 「登録するなら金は出さない」とは恥ずかしい。人間のどうしようもない殺戮・残虐・虐殺な行為を無かったことにしてはならない。全ての人々の前に、戦争の悲惨さを明らかにすべきだ。それでも、「自国を守る」と振りかざし、戦争へと向かうことは止められないのかも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掘れました。水も出ました。

2015年10月17日 21時23分12秒 | Weblog

 掘れました。水も出ました。ガチャポン(手押しポンプ)はこの家のエクステリアを受け持つ業者が設置するというので、私たちの工事はここまで。一昨日は5.5メートルまで掘れたが、なかなか目当ての砂が出てこない。先輩が「あと1メートル」と言う。本当に?と疑問もあった。今日は水圧を利用して掘ることにした。

 7メートルまで来たのに、「まだ掘れる」と言う。2メートル足して9メートルになった。「まだ、いける」と先輩は言うので、さらに1.5メートル足す。結局、10メートル近くになって、「塩ビ管が急に重くなった」と言う。「水脈に当たったのだから、吸い管をすぐに入れよう」とやってみる。外側の塩ビ管を抜くが圧力がかかって抜けてこない。それでも1メートルほどは引き上げた。

 ガソリンエンジンを動かして水を汲み上げる。思ったよりも水量は多い。水は地下水だから結構冷たい。においをかいでみるが臭みはない。水に緑茶を入れてみるが、黒く変色しなかった。やれやれである。最近、私たちに井戸掘りを教えてくれた先輩が言ったことを思い出す。「素早くやれ」「水脈の判断を誤るな」「ダメな時は、いつまでもしがみつくな」など、手順や判断など、先輩ならどうするだろうと思い浮かぶ。

 楽天的な先輩と悲観的な先輩、人が好い人だけに自分で考えないと流されてしまう。そうかといって、自分の考えをキチンと伝えなければ感情のズレが生じてしまう。ワイワイガヤガヤ、好き勝手なことを言い、時に妥協し、作業が続く。「こういう肉体労働も我々までかも知れない」と物知りの先輩は言う。「農作業も土木作業もコンピュター化されていて、優秀な人間しか働けなくなった。若者の3割は働くところがない」と。

 バカなことを言い、水が出る出ないに一喜一憂している単純な人間が生きていける社会ではなくなった。病気の主要な原因はストレスだという。豊かではあるが忙しく、それでいて世知辛い、何とも生きにくい社会を作り上げてきてしまった。そう言いながらも、どうにもならないのだから、なるようになるさと開き直ってみる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心中妄想

2015年10月16日 19時55分50秒 | Weblog

 風がなく暑ささえ感じながら、一日中ルーフバルコニーで鉢の土の入れ替え作業をした。黙々と作業をしていると妄想の世界に入っていく。『曽根崎心中』で近松は「恋の手本となりけり」と結んだ。角田光代さんは『曽根崎心中』のパンフレットに「愛しかたも、死にかたも、自分で決める」と書いた。単なる同情や行きがかりで死ぬのではない、愛を成就させるためという強い決意が分かる。

 心中を美しいと思うか否かは人それぞれだろうが、日本だけでなく西洋でも心中事件はある。死しか選択の余地はないのかも知れないが、「死んだ気で生きられないのか」と思う私は臆病なのだろう。それでも一緒に死んでくれる人がいるのは嬉しい気がするが、本当に自分のために死んでしまっていいのかとやっぱり考えてしまう。

 心中といえば太宰治を思い出す。この人は何度心中を図ったのだろう。太宰の心中は愛を成就させるものとは思えない。どう見ても相手を巻き添えにしている。太宰はハイテンションの時と落ち込んだ時との落差が大きく、次第にコントロールできなくなっていったと思う。それでも、そんな太宰に女性たちはなぜ「一緒に死んでもいい」と思ったのだろうか。

 朗読の第1部は、角田光代さんの『口紅のとき』を7人の女性が輪読した。「谷崎、そう言っても若い人は知らないか」という言葉がなぜか心に残った。谷崎は女性の足に執着していた。ほっそりとした色白の足は湿り気があった。美術教室に置いてあった女ギリシア女性の足首の石膏像のように美しい。ひんやりとして湿っぽい白い足首に触ってみたい。

 昨日に続いて明日も井戸掘り。昨日は5.5メートルまで掘れたけれど、4.5メートルで出てきた砂から再び黒い泥土になった。先輩はいつも楽観的だから、「いよいよあと1メートルも掘れば完成だ」と言うが、そうだろうかと嫌な予感がする。愛の成就も、井戸掘りの完成も、実は思ったよりも難しい。明日が良い日になりますようにと祈るばかりだ。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『曽根崎心中』

2015年10月15日 17時58分27秒 | Weblog

 『曽根崎心中』を朗読で表すとどうなるのか、興味津々だった。待ち合わせ場所の喫茶コーナーに行くが、友だちの姿が見えない。コーヒーとトーストを注文して、カミさんが携帯に連絡するとすぐ前から声がした。死角になっていて確認できなかったのだ。しかし、よく見ると元気がない。目がショボショボしていて、いつもの彼女とは全く違う。「昨夜、飲み会から帰って、鼻水と咳が止まらない」と言う。

 「朗読が終わったら、どこかで1杯やりましょう」と楽しみにした企画だったが、どうもこの調子では行けそうにない。開場前から並んで1番前の席に座った。ところが時間が経つに従い、カミさんも友だちもクシャミをハンカチで押さえ我慢している。鼻水をハナカミで押さえている。どう見てもこれは最悪の事態である。演技者に気を遣っているけれど、本人たちはかなり苦しいはずだ。

 体調不良なのに朗読『曽根崎心中』はきつかっただろう。1時間ほどを一人で読むのだ。『曽根崎心中』は近松門左衛門の心中ものの走りで、これを角田光代さんが書き直した。朗読をしたのは竹元まき子さんで、プロフィールを見ると「2歳より日本舞踊を始め、長唄、義太夫、声楽、三味線、琴、太鼓など芸事を幅広く修め、劇団前進座にも所属したこともあり、「生きた言葉を客席に届けることこそ朗読の真髄」と、朗読教室を主宰している」とある。

 醤油問屋の手代の徳兵衛に心惹かれた遊女のお初、ところが徳兵衛はどうにもならない事態にはまってしまい、身の潔白を明らかにするために死を覚悟する。それを知ったお初は徳兵衛とともに遊郭を抜け出し、露天神の森でふたりは情死する。近松は「未来成仏うたがひなき恋の手本となりけり」と結んでいる。この芝居の影響は大きく、この世で結ばれないならと心中する者が続いた。

 手代の徳兵衛がこの世を悲観して死ぬのは分かるが、お初はなぜ死を選んだのだろう。愛する者に同情して一緒に死ぬことで、来世の幸せを願ったのだろうか。遊女だったから、死を選択したのだろうか。心が一つになる、これが恋の手本と近松は言うが、死でしか成就しないとは何ともやりきれない。カミさんも女友だちも症状は悪化している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラグビーの思い出

2015年10月14日 17時02分57秒 | Weblog

 ラグビーW杯イングランド大会で日本チームは、1次リーグを3勝しながら準々決勝には進めなかった。しかし、にわかにラグビーファンが増えた。小学生が五郎丸選手のポーズを真似て、「カンチョー!」とやっている。おいおい、それはカンチョーじゃーないぞと言いたいところだが、それだけ多くの人に知れ渡ったということだろう。

 同じ高校へ通った中学からの友だちが「体育の時間にラグビーをやった」とブログに書いていたけれど、先生が違ったのか私は覚えがない。高校はサッカーの伝統校で、明けても暮れてもサッカーばかりだったような気がする。サッカーは意外に肉弾戦で、眼鏡を壊して、お金がない父に申し訳ないことをした。映画を観ると、パラマウントニュースが流れ、スポーツでは野球やアメリカンフットボールやバスケットボールの試合が映された。子どもたちは野球が好きだったが、私はアメフトかバスケをやってみたいと思った。

 高校の教師になって、ラグビーをやるチャンスが与えられた。ラグビーの選手だった体育の先生がいて、高3の授業でラグビーを教えていた。新任の男が6人もいたので、それに若手の体育の先生や体力が自慢の先生らが加わって教員チームが結成され、高3のクラスと戦うことになった。ラグビーは眼鏡をかけては出来ないので、眼鏡なしでやることになるが、近眼の私は遠くが全く見えない。与えられたポジションは2番だった。

 最前列が3人その次が2人その次が3人でスクラムを組んで我武者羅に前に進む。1番3番4番5番は大きく屈強な身体が揃い、10番は司令塔で11番から15番の選手がボールをもらって突進し、トライを決める花形である。目の悪い私はボールの存在が分からないからどこへ走っていいのかも分からない。笛が鳴って「スクラム」と言われると、そこへ走って行ってスクラムを組む。ボールが入ると力任せに押し合い、素早く足でボールを後ろへ送るのが2番の役目だ。

 ある時、体制がキチンとならないうちに押し合いとなり、私の身体は後ろから押されて上へと浮き上がった。「ボッキ」と音がして背中が痛む。しばらく息が出来ないほどだった。その夜、近くの整形外科に行ったことを覚えている。近眼でチビの私には無理なスポーツだのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先輩の嘆き

2015年10月13日 18時50分20秒 | Weblog

 井戸掘り作業は肉体労働なので年寄り向きではない。一息入れるために無駄口が多くなる。中学を卒業してすぐ九州から働きに来た人が言う。「名大といえば、この辺りでは一番難しい大学でしょう。そんな大学の子が何で人殺しをするんですか?学校の先生が甘すぎませんか?」と捲し立てる。「私らの頃は、ビシバシ殴られた。今の先生はよう殴らんでしょう。だから子どもに舐められるんです。指導要領に従って教えるだけで、子どもを見ていないですよ」。

 先輩の中にはこう言う人が少なくない。私の中学時代にも予科練帰りという先生がいて、「自分が殴った生徒は東大へ入った」と自慢していた。殴られてでもいいから東大へ行きたいという気持ちがなかったので、私はこの時、東大へ行かないと決めた。「ウチの子は殴ってくださっても結構です」と言う親もいるけれど、それを言うなら「まず親の私を殴ってください」と言って欲しい。痛いのは子どもなのだから。それに、殴らなければ分からない子を育てたのは親である。自分の責任を果たさずに、教師に求めるのは本末転倒である。

 「日教組が無責任な子どもを作った」と言う人もいる。現場の先生は子どもの一人一人を見ている。指導要領に従うのは学校教育の決まりであり、日教組もこれを逸脱することは出来ない。無責任な子どもや異常な子どもが生まれてくる背景は社会にある。戦後の何もない社会から、黙々と働き、富を築いてきたのは先輩や私たちである。映画『理由なき反抗』で、ジェームスディンが1リットルの牛乳をゴクゴク飲むのを見て羨ましいと思った。自動車を乗り回し、バスタブに入り、音楽を聴いて新聞を読む、豊かなアメリカに憧れてきた。

 私たちの子どもはアメリカ社会のような豊かさの中で育った。自分は中学しか出ていないが、子どもだけは大学まで行かせてやりたい。そういう思いで子育てをしてきた。子どもに与えられるものは出来る限り与えてきた。そして今、その子どもたちが育てた子どもが問題視されている。いろいろ診断され病名まで付けられ、子どもたちの方が「シンドイ」だろう。心が乾いてしまうことのないようにと思うのだが‥。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先輩の個展に刺激を受ける

2015年10月12日 19時00分58秒 | Weblog

 慰安旅行の出発は午後3時だったので、それまで二科展と私が高校の教員となった時の先輩の個展を見て回った。二科には教員採用試験の時に出会い、その後は工業高校のデザイン科教員として会うことになった人がいるし、この街で地域新聞を始めた時に出会った女性の作家もいる。二人とも今では二科のトップの方にいる。

 学校の先輩は工業デザインを教えていたが、家業は確か染物屋さんと聞いた。先輩は長男なのに家業を継がなかったので、弟さんが後を継ぎ、日展の工芸部門の作家として活躍されている。それでも先輩のカミさんは染物をしていて、今回の個展もふたりの合作となっていた。先輩は私たち平面の人間が細かな筆使いで悦に入っていると、「simple is best」と冷やかしてきた。

 先輩の授業を見たことがないが、卒業生たちからは慕われていたので、一度くらいは見ておきたかったと今更ながら思う。先輩の先生の代理を務めることはあっても、見学させてくださいと言える雰囲気はなかった。大学の先生みたいに、それぞれ独立心が強くて近寄りがたかった。40年ぶりくらいの出会いだったけれど、先輩はいくつになられたのだろう。「この歳で私もやっているのだから、君も何かやれよ」と言ってくださった。

 先輩には在職中に、「教師になるか、芸術家になるか、はっきりしておいた方がいい」と注意されたこともある。いつも煙草を一口か二口吸っては消してしまい、灰皿が山のようになっていた。コーヒーも好きだったし、麻雀もよくやっていた。なんとなくウマの合う先輩だったけれど、平面しか出来ない私には遠い存在だった。個展を見させてもらい、絵を描かなくてはという思いを抱いた。

 夏祭りの慰安旅行は1泊で知多半島へ出かけた。まだ、現役で働いている人もいるためか、やはり参加者は少なかった。大いに飲んで、食べて、カラオケをして、充分に慰安出来たと思う。そして今日は、朝から井戸掘り。3.3メートル辺りで真っ黒な土となり、今日は4.5メートルまで掘り進んだ。少し砂が混じってきた。あと1メートルないしは2メートルほどかなと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする