友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

モーツァルトの亡くなった日

2012年12月05日 21時00分29秒 | Weblog

 モーツァルトを描いた映画で印象に残っているのは『アマデウス』だ。モーツァルトの肖像画を見たことのある人なら、若々しく美しい顔立ちの青年を思うだろう。私の小学校も中学校も、音楽室の壁には、バッハやヘンデル、ベートーベンなどの楽聖と並んで、とても若くてハンサムなモーツァルトの肖像画が掲げてあった。学校で学んだモーツァルトの旋律も滑らかで美しかったように思う。

 しかし、映画『アマデウス』のモーツァルトは、まるで奇人変人であった。酔っ払って「ヒヒヒヒ」と笑う姿は恐ろしいほどだった。映画なのだから、本当のモーツァルトはそんな人ではないと思っても、未だにモーツァルトのイメージとして私の中に定着してしまっている。モーツァルトの伝記などを読むと、映画の人物が本物のモーツァルトなのかも知れないとさえ思われてくる。

 映画『アマデウス』は、天才モーツァルトに嫉妬したオーストラリア皇帝に仕える音楽家のサリエリがモーツァルトを毒殺した筋立てになっていた。老いたサリエリが精神病院の病床で「許してくれ、モーツァルト、君を殺したのは私だ」と言った。そのためか、サリエリによる毒殺説は根強い。映画では余りにも才能溢れるモーツァルトに宮廷音楽家の地位を奪われるのではないかと危惧するサリエリ、ドイツ語でオペラは歌えないと主張するサリエリ、しかしモーツァルトは次々とドイツ語のオペラを完成させていく。凡人と天才の違いが見てとれた。

 イタリア人であるサリエリは、大衆にも受けるモーツァルトの音楽の素晴しさが理解できるがために、いっそうモーツァルトを疎ましく思う。ネズミ色の外套を着た怪しげな男〈サリエリ?〉が、モーツァルトの家を訪れ『レクイエム』の作曲を依頼する。狂気のように作曲に取り掛かるモーツァルト。酒を飲み、狂ったように怯え、狂人となっていく。35歳のモーツァルトは、1791年12月5日に亡くなった。その亡骸は共同墓地に埋葬された。

 先日、私の友人が演じたモーツァルト劇では、妻を寝取られたホーフデーメルによって撲殺されたとなっていた。『撲殺されたモーツァルト』はイタリアの数学者がモーツァルトの死因を解き明かしたものだ。しかし、学校の音楽室で見たモーツァルトは天才の風貌はしているけれど、どこか寂しげではあり、決して狂人とは思えない。私の中のモーツァルトは、それは全く事実でないとしても、繊細で孤独な天才である。

 「金持ちは友情というものを、全く知りません。特に生まれた時からの金持ちは」。「「望みを持ちましょう。でも望みは多すぎてもいけません」。「結婚したらいろいろ分かってきますよ。今まで半分謎だったことが」。これらはモーツァルトの手紙だが、誰に出したものなのだろう。

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首長業界の常識っておかしい

2012年12月04日 18時52分54秒 | Weblog

 衆議院議員選挙が公示され、街ではやかましく街宣車が走り回るのかと思われたけれど、公示より以前の方がはるかに選挙戦らしかった。古い友人から、選挙事務所で誰それに会ったと電話があった。まだ、政治にかかわっている人がいるのか、元気があるねと感心した。

 首長になった私の後輩は、「首長業界の常識は、与党も野党も関係なく、どこの政党にも顔を出す、推薦もする、応援演説も行なう。でも、私はノータッチでいくと決めた。すると12月の議会の一般質問で、『補助金がもらえなかったら、どうするのか』という追及されるそうだ。

 彼がどんな風に答えるのか知らないが、首長業界の常識はおかしいのではと私も思っていた。首長の中にはあらゆる政党からの推薦をもらって当選している人もいるが、余りにも節操がない。首長は1つの政党に偏らない方がよいという考えから、あらゆる政党からの推薦や支援を受けずに選挙を戦うことが首長選挙の基本だと私は思う。

 あらゆる政党から推薦なり支援を受ければ、当然にも選挙で恩返しをすることになる。敵対している政党の選挙の応援で、よくも抜け抜けと両方に、「なんとしてでも頑張って、当選してくださることが当市の発展に不可欠です」と言えるものだと思う。応援を頼まれればどこの政党にも顔を出すことは信念がないし、不誠実なことではないのかと思ってしまう。

 「補助金がもらえなかったら」と質問する議員は、ゴマをすれなければ補助金は下りてこないと本気で思っているのだろう。それなら逆に、「あらゆる政党に顔を出せば、補助金は出るのですか。反対に顔を出さないと補助金は出ないのですか。もし仮にそうであるなら、そのような仕組みは間違っていませんか。正した方が良いのではありませんか」と、その議員の政治意識の変革を迫りたいと思う。

 首長は自治体が当面する問題の解決のために、県会議員や県庁の職員のところへ日参するし、場合によっては国会議員や中央官僚のところへもお願いの行脚である。本当にそんなことをしなければ地方自治体への配慮はないのか。どれだけ日参するかが解決の目安であるなら、本当にこの国はどうかしている。

 総選挙で大きく政治の地図は変わるのだろうか。いや、変えなくてはならないだろう。政党が乱立していて、有権者は戸惑うかも知れないが、私はむしろ良い前兆だと思っている。本音が見える政治に少し近づいて来たように思う。

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人類は進歩しているのか

2012年12月03日 18時45分28秒 | Weblog

 尖閣諸島や竹島や北方領土やミサイルの発射や、税関や反日運動や日本商品の高い評価や、いろいろな外国との諸問題に対して、「民主党政権は弱腰外交だ」とか、毅然とした態度が取れない根本原因は軍事力を行使できない平和憲法があるとか、明日の衆議院選挙の公示を前に外交問題がうるさくなってきた。私の友だちも前に紹介した知的な高齢の女性も、「弱い日本」に対して憤りを持っている。

 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読むと、外交を動かしているマグマは経済問題だと思った。江戸末期に外国と結んだ不平等条約を跳ね返すために、日本は世界大戦まで進んでしまったが、政府がその先頭に立っていたとはいえ、多くの国民がこれを支持していたことも事実だ。外交で最後にものをいうのは軍事力という基本は今も変わらない。軍事力だけが突出していても経済力が伴わないと、かつてのソ連のように崩壊していくこともある。軍事力と経済力を備えたアメリカが世界を支配しているのはだから当然である。

 しかし今、アメリカだって財政赤字から脱却できないし、アメリカだって国際世論を無視できない。アメリカの財政問題は、経済の自己運動を政治がコントロールすることは無理だと言っているようにも見える。そもそも資本主義社会は新しい時代に入ってきているのだと言う経済学者もいる。第1次世界大戦の反省から人類は国際連盟を作り上げた。しかし、それでも第2次世界大戦を防ぐことは出来なかった。その反省に踏まえて、国際連合に発展したが、未だに個々の紛争の解決には至っていない。先日、国連はアメリカの意向に反してパレスチナに国家としての地位を与えた。

 日本のように、戦争放棄を憲法に掲げた国家はそれを御旗にして、新しい世界作りを声高に主張して国際世論の中心になっていくべきだと私は思うけれど、自民党の安倍さんや維新の石原・橋下さんは「強い日本」を強調している。石原さんは原発による「核保有」は外交の強力なバックになるとさえ言う。石原さんの発言を聞いていると、まるで子どもと同じだなと思う。腕白小僧は腕力で子どもたちを支配し、「ウン」と言わせてきた。大人というものはもっと賢いものだと子どもの頃は思っていたけれど、少しも変わらない。

 「人類は進歩しているよね」と誰かが言っていたけど、実際に進歩しているのだろうか。それでも社会の仕組みは時代を反映して変わってきているのだから、それに合わせて人類もやはりどこかで変わってきていると思う。今日は井戸掘りがうまくいった。私たちも技術的に少しは進歩したのだろうか。確信が持てないでいるが‥。

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寒さの中で

2012年12月02日 18時06分13秒 | Weblog

 寒くなると予報されていたけれど、本当に寒い一日だった。今日で全ての鉢の土の入れ替えを終わるつもりでいたが、出来なかった。寒いと言っても風はない。これなら充分に作業が出来るだろうと思い、ルーフバルコニーに出て作業を始めた。風はないけれど、空気は冷たくて、顔がこわばってくるし、鼻水が自然に流れ落ちてくる。軍手の指先が次第に感覚を失っていく。寒さのせいなのか、心臓も痛い。これ以上続けていては本当に心臓が止まるかも知れないと思った。それでも午前中に出来る分はやろうとして、同じ姿勢をとり続けないように気を付けた。

 残りはあと大小合わせて9鉢あるが、どれも小さいから頑張れば1日で、長くても2日もあれば完了する。毎日続けても、天候のこともあるからやはり2週間はかかる。2週間かけて土を入れ換えて植え込み、花が見られるのは1週間かと思うと、とても割りの合わない作業だ。そう思いながらも毎年毎年なぜ続けているのだろう。こんなに土の入れ替えをしなくても、適当に植え込んでも花は同じように咲くだろう。そう思うと、結局は自己満足のために行なっているのだと思う。私はいつもどんなことでも自己満足を得るために頑張っているようだ。

 花が咲けば、ひとりでも多くの人に見せてあげたい。「よく頑張ったね」という言葉よりも、美しいものを見ることの喜びを共有したいのだ。それは自分が育てたチューリップでなくてもかまわない。満開のサクラ、川面に浮かぶ花筏、雪の中で咲く椿、見渡す限りの紅葉の山里、水しぶきを上げる滝、どこまでも続く海原、道端に咲く露草、実は何でもいい、きれいだね、見事だね、そう思って共有するものがあればそれで満足なのだ。

 綿矢りさという若い小説家がいる。『勝手にふるえてろ』では、未婚の女性が抱く結婚への憧れが面白おかしく描かれていた。井上荒野というもう少し年上の女流作家がいる。『切羽へ』を読むと、既婚の女性が抱く恋情の刹那さが分かる。肉体の交わりはないけれど、儚い情愛が漂っている。男でも女でも、ギリギリのところで生きている。見事なまでの正直な女性の気持ちをふたりの作家は全く別の次元で描いていて面白いと思った。

 今朝の朝日新聞に絵本の募集の結果が報道されていたが、私の名前はなかった。あれから図書館で絵本を見たけれど、私が描いたものは余りにも時代遅れの作品だった。これでは大賞にはなれないなと思ったが、佳作にも入らなかった。自分では何でも出来る、才能豊かな人間と思っていたけれど、実際はそれほどでもないことがまたひとつ証明されてしまった。綿矢さんや井上さんのようには小説も書けないし、いや、今度行なう市民講座のチラシの原稿すら進まない。やっぱりチューリップのための土の入れ替えがせいぜいなのかと落ち込んでいる。

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中年パラサイト

2012年12月01日 18時19分07秒 | Weblog

 同じ歳の者で話していた時、家族の話になった。夫婦ふたりだけで暮らしている人が多かった中で、「オレのところは別居」と言う人がいた。みんなが興味を抱いて、「どうしたの?何か悪いことでもしたの?」と聞いた。「そんなんじゃーないよ。オレは長女と家で一緒に暮らしているが、カアちゃんは次女とマンションで暮らしている」。「えっ、それ、どういうこと?」。「次女は外国人と結婚したけど、離婚して小さい子どもふたりを抱えて働いている。子どもの面倒を見るためにカアちゃんは次女と一緒に暮らしているのさ」。「長女も働いてるが、子どもはもう高校生と中学生だから、面倒を見ることも無いのさ」。

 そういえば最近、いろんな形の家庭が増えてきた。30代、40代で結婚していない人も多い。男性にしても女性にしても、「結婚はメンドクサイ」と言う。男性は結婚するにはある程度の収入と貯金、あるいは住む家が必要だと思っているようだ。多分、女性がそう望んでいるのでこれをクリアしないと結婚は出来ないと考えているのだろう。女性の方は、就職して仕事が面白く、ここで結婚してしまったら二度と這い上がれないからと結婚を先送りしてしまう、あるいはたまたま親の面倒を見なくてはならないために結婚の機会を逃してしまう、そういうケースが多いようだ。

 男性はせっせと働いてもなお安定した収入や貯金に到達できず、女性はいつか白馬の王子がきっと現れると期待して、どんどん歳を重ねてしまう。親も「家から出て行け」とは言わずに、子どもの面倒を見ている。親のスネをかじっているパラサイトシングルは次第に増えて、今では中年パラサイトとなっているそうだ。統計によると、女性の生涯未婚率(50歳時の未婚率)は2010年には10%を超え、30代前半の未婚率は34%にもなった。

 「未婚ということは、男性を知らないのかねえ」と私の前の席の女性が口を挟む。すると隣の席の女性が「そんなことはないでしょう」と力強く言い切る。結婚するしないは本人の自由だけれど、異性との交わりも知らないのではちょっと気の毒だ。人肌の温かみを知った上で、そんなものには価値がないと言うなら仕方ないが、交わることの喜びも知らず一生を終わるのは寂しい。私がそう言うと、「それもメンドクサイのよ」と一蹴されてしまった。

 結婚しない人が増え、離婚する人が増え、この子たちの老後はどうなるのだろうと親である私たちは危惧するけれど、「まあ、心配しても始まらん。どうせその頃にはオレたちは生きておらんだろう」と私の隣の男性は断言する。子どものことを心配しつつも、老いたる自分たちにはどうにもならないと自覚する。今度の選挙に立候補する人たちも私たちの子どもくらいに若い。託す以外ない。

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