友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

職業を選ぶ

2007年05月12日 17時29分36秒 | Weblog
 先日、栗原小巻さんの朗読の後、小巻さんとのフリートークの時間があり、会場からの唐突な質問にも小巻さんは真摯に答えていた。質問の中に「2番目になりたい職業が本当になりたいものと言われているが、女優は2番目だったのか」というものがあった。小巻さんは小さい頃はバレーを習っていて、バレリーナになりたかったこと、女優になって映画の中の役ではあったが「ロシアの一流のバレリーナと一緒に踊れたので、夢はかなった」と、話された。気取らず、ふざけず、馬鹿にせず、実に誠実な話し方だった。

 私は、自分はいったい何になりたかったのだろう。小さい時は、父は教員だったけれど、家業は材木屋だったので、家の設計図をよく書いていた。建築設計士になりたいと思っていた。ところが設計士は数学と物理が得意でなければなれないと知った。その時点で建築設計士になることを諦めた。建築のデザインという分野があることを知った時は遅かった。中学生の時は、バラを育てていたので、造園設計士もいいなと思った。写真で見る外国の庭園は魅力的だった。造園設計士も建築設計士と同じ理由で諦めなければならなかった。

 高校生の時、キリスト教会の牧師が「牧師になるように」と勧めてくれた。しかし、神に絶大な信頼が持ってなかった。自分の罪の深さをよく知っていた。人を神のもとに導く役割を果たすには余りにも自分は不適任だと思った。高校では1年生の時に新聞部の部長を押し付けられた。新聞作りは面白かった。新聞作りのために学校へ通っているような毎日だった。大学も新聞部に入り、将来は新聞記者になろうと仲間と約束した。大学を卒業する時、新聞社を受験したが受からなかった。

 先生になりたいとは思っていなかった。「お父さんは、本当は小説家になりたかったのよ」と姉が教えてくれた。教員免許が中学と高校しかなかったことが幸いなのか災いなのか、高校の教員になった。教員は楽しかった。父親がどんな教員だったのか知らないが、いつも静かに本を読んでいた姿を見ていて、小学校の校長だった父を超えることはできないと思っていた。だからか、父親と別の世界で働くことになって、父親と比べることがなくなったことに安堵感もあった。組合運動そして反戦運動、教員を辞めた。教員を辞めてみると、どこも働く場所はなかった。

 町の図書館で、置いてあった地域新聞を見た。新聞といえば全国紙しか頭になかった私には大きな衝撃だった。同時にこういう新聞なら自分でもできると思った。地域新聞を5年間一人で作り続け、地域での信頼も勝ち取った。大学と連携した大学公開講座を、新聞とは別に地域情報誌を、始めることもできた。教員と同じくらい新聞作りは楽しかった。

 どんな職業の人になりたいか、ハッキリと目標を持つことは大事だろうが、持てる人の方が稀だと思う。いくつかの偶然が重なって、職業に就いていく。働いてみてから、これこそ自分が求めていた仕事だと思う人もいれば、自分には適していないと変わっていく人もいる。本当は何が適しているのか、本人でさえわからない場合の方が多いだろう。

 自分がこの世に生を受け、どこに向かって生きているのか、自分の人生の意味はどこになるのか、判ることはないのかもしれない。これを見極めるために人は生きているのではないかと思う。
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2 コメント

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どこへ向かっているのでしょう? (tama)
2007-05-15 01:19:48
鈴木さんと同じように、まさか新聞を作るようになるとは思っていませんでしたが、今は作ることがとても楽しい毎日です。そして、鈴木さんが作ってくださった生涯学習ももっと参加していけるようにと思っています。ただ、ここが終着駅という気はまだしていなくて、相変わらず本当は何が適しているのか・・・と思いながら生きています。
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Unknown (鈴木 至彦)
2007-05-15 15:52:25
そうですね。今、やっている仕事、生活の基盤となっている仕事に全力で取り組んでいれば、また違った道があったとしても自ずと開けてくるような気がします。
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