友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ああ今日もダメだった

2010年11月14日 20時02分07秒 | Weblog
 今日は岐阜県各務原市川島で井戸掘りだった。半田に続いて名古屋市緑区でも苦戦の連続だったから、木曽川の中州のこの町なら井戸掘りも楽勝だろうという驕った気持ちがいけなかった。「きっと川原に転がっているような大きな丸い石がゴロゴロ出てくるぞ」と先輩は心配していたけれど、掘ってみなくては分からないからと意気揚々と出かけた。だって、昔使っていた古井戸を埋めてしまったので、もう一度使えるようにして欲しいという注文だから、容易いだろうと思ったのだ。ヘンなもので埋めてはいないと言われたけれど、塩ビ管はもちろん鉄管も古井戸の2メートルくらいのところから入っていかない。どうも石が詰まっているような感じだ。

 古井戸はコンクリートで覆われ、駐車場の一部となっているので、空けてもらった穴も小さく、これでは作業は困難だった。ご主人は何とかして古井戸を掘って欲しいと言われるが無理だと説明する。それでは仕方がないからと庭の一角で掘ることにした。庭と言っても畑になっているところで、畑にはとてもよい黒土である。母親のためにとわざわざ畑土を入れたのだ。その下はやはり固い山土のような小石交じりの層があり、これを掘っていくと今度は砂と石とが交じり合っている。完全に川原の地層である。それがどれくらいの深さまであるのか見当もつかない。

 初めはスコップで掘り、挟んでつまみ出す道具を使って掘り進めた。しかし1メートル掘っても変わらない。砂と石の層なので、掘れば周りは崩れ、作業は遅々として進まない。「焦らず、時間をかけて手掘りでやろう」と長老が言う。水を打ち込んで掘ればたちまち石が集まってしまい、掘れなくなるだろう。ここは手掘りでやるしかないが、問題はどこまでこの砂と石の層が続いているかである。「なあに、人間がふたり、中で作業ができるくらい広く掘れば、2メートルや3メートルは掘れる」と長老は発破をかける。

 こんな機会は滅多にない。今まで手掘りでやったとしても80センチか深くても1メートルいかなかった。それを機械も使わず、スコップだけで掘っていこうというのだ。これが無謀に終わるか、いや新しく私たちの方法となるのか、今日は掘れるところまで掘ってみようということになった。いつもなら経験者であるリーダーの指示に従って作業を進めるのだが、そのリーダーが来られないと言うので、経験の浅い私たち5人だったことが返って自分たちでやれるようにやってみようという気持ちにさせたのかもしれない。2メートル四方の穴倉を深さ1.5メートルほど掘って本日の作業は終了した。次回は火曜日、午前9時開始の予定だ。

 「何だか自分の墓穴を掘っているようだ」という話から、「シベリア抑留の人たちもこんな風だったのかな」と言えば、「あっちは凍り付いていて穴も掘れんだろう。銃弾も食料もない南方戦線のガナルカナル辺りでは毎日塹壕ばかり掘っていたから、まあその方が近いかも知れん」と物知りは言う。掘り下げて周囲がだんだん高くなると、スコップで土を上げるのも困難になる。「ああ、いよいよ墓場行きだ」と冗談が飛ぶ。火曜日には水が出ますようにと、祈るとしよう。
コメント
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